ヴィボルグ
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ヴィボルグ(ヴィボルク、ヴイボルクなどとも;ロシア語:Вы́боргヴィーボルク)は、ロシア連邦レニングラード州の都市である。かつてはフィンランドの都市であり、フィンランド語名ヴィープリ(Viipuri)、スウェーデン語名ヴィボリ(Viborg)でも知られる。フィンランド湾に面し、カレリア地峡の北西端に位置する。サンクトペテルブルクから北西に130kmの距離にあり、38km北にフィンランドとロシアの国境がある。2002年時点での人口は79,224人。
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[編集] 歴史
この街の地域はヴオクシ川の西の支流上にあり、貿易の中心地であった。フィン人の一派カレリア人が住んでおり、彼らはノヴゴロドやスウェーデンの支配下に入った。
1293年、いわゆる「第三次スウェーデン十字軍」の際に、ヴィボルグ城(en)が元帥トルケル・クヌートソン(en)によって建てられた。この城を巡ってスウェーデンとノヴゴロドは数十年にわたって争った。1323年の条約(en)によってスウェーデンの一部となった。ロシア・スウェーデン戦争(1495–1497年)の間、街は攻囲に抵抗した。
1403年、スウェーデン王エーリク・ア・ポンメルンにより貿易特権を与えられた。1710年の大北方戦争でピョートル1世に占領されるまで、スウェーデン領であった。1721年のニスタット条約によってロシア領となった。1790年、第一次ロシア・スウェーデン戦争では、ヴィボルグ湾の戦い(en)と呼ばれる大規模な海戦が起こった。
1809年にフィンランドがロシアに割譲されると、アレクサンドル1世は1812年にこの街を含む地域をフィンランド大公国に編入した。19世紀の間、フィンランド東部における行政と貿易の中心地として発展した。1856年に開通したサイマー運河(en)はフィンランド東部と海を結ぶ道となり、地域経済に貢献した。工業は育たなかったが、その位置のためにカレリア地峡、ラドガ・カレリア、南東フィンランドでの工業製品の運輸の中心地となった。
1917年のロシア革命ののち、フィンランドは独立を宣言した。フィンランド内戦で街は赤衛軍が掌握したが、1918年4月29日に白衛軍に占領された。大戦間の数十年、街はヴィープリと呼ばれ、フィンランド第2の都市だった。人口は8万人で、少数民族としてロシア人、ドイツ人、スウェーデン人がいた。この時期にアルヴァ・アールトによる近代建築の傑作、ヴィープリ図書館(en)が建てられた。
冬戦争では、7万人の人々がヴィープリからフィンランド西部に避難した。住民がいなくなったヴィープリとカレリア地峡全体は、モスクワ講和条約によってソ連に割譲され、1940年にカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に編入された。ヴィープリには1万人程度のフィン人が残っていたが、彼らも引渡しの前に立ち退いた。
旧フィンランド領のカレリアからの避難民は政治的な勢力となり、その要望はフィンランドがドイツの支援を受けてソ連と戦う動機となった。1941年8月29日、ヴィープリはフィンランド軍によって奪回され、フィンランド政府はモスクワ講和条約で失った地域を併合した。その年のうちに9千7百人が帰還し、1942年には1万6千人となった。2万8千人まで戻った住民は、ノルマンディー上陸作戦と平行して行われた赤軍の攻撃の前に、再び避難民となった。1944年6月20日に街は陥落したが、タリ・イファンタラの戦い(en)でフィンランド軍はソ連の攻撃を止めた。
1944年9月19日のモスクワ休戦条約によって、国境線はモスクワ講和条約のものに戻り、パリ条約でフィンランドはヴィープリを放棄した。ヴィープリはレニングラード州に編入されてヴィボルグと名前を変え、ソ連全土からの移住者が集まった。
[編集] 名所
ヴィボルグでもっとも有名な場所は、ヴィボルグ城(en)である。13世紀にスウェーデン人によって建てられ、1891年から1894年に大規模に再建された。「丸い塔」とラサウス塔は16世紀半ばに建てられたもの。アルヴァ・アールトによるヴィープリ図書館(en)は、近代建築の歴史における基準点となっている。
1740年に建てられたロシアによる要塞や、ピョートル1世とトルケル・クヌートソンの記念碑もある。「レーニンの家」は、1917年の9月から10月にレーニンが滞在し、十月革命の準備を行った場所である。
フィンランド湾に面した高台にあるモン・レポス公園は、東欧でもっとも広大なイギリス式庭園の1つである。