ロシア自由民主党
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ロシア自由民主党 Либерально-Демократическая Партия России |
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党首: | ウラジーミル・ジリノフスキー |
成立年月日: | 1989年 |
党本部所在地: | モスクワ |
政治的立場: | 国家主義、ファシズム ポピュリズム |
色(イメージカラー): | 金 |
国際提携: | 特になし |
ウェブサイト: | www.LDPR.ru |
ロシア自由民主党(ロシアじゆうみんしゅとう、Либерально-Демократическая Партия России, Liberal Democratic Party of Russia)は、ロシアの極右政党。党首はウラジーミル・ジリノフスキー。2007年12月現在、下院での現有勢力は40議席。類似名の日本、ドイツ、イギリスの政党とはもちろん無関係であるが、設立当初はこれらの党との連携を一方的に謳ったこともある。
前身は1990年4月に設立されたソ連自由民主党である。この党は、ジリノフスキーを党首として、ロシア大統領選挙に向けて、国家保安委員会(KGB)の工作で出来たとされる。1991年6月のロシア大統領選にジリノフスキーは出馬し、泡沫候補扱いされたが、結果は、エリツィンロシア最高会議議長、ルイシコフ元ソ連首相に次いで3位につけた。1992年4月、党名をロシア自由民主党に改称した。
「自由民主党」を名乗っているが、この党は極右民族主義政党であるのが実態である。党首のジリノフスキーも再三にわたり、旧ロシア帝国の復活を主張する立場から、アメリカに対してアラスカ返還を主張したり、中央アジアに露骨に領土的野心を吐露したり、日本の北方領土返還運動に対して東京に核爆弾を落とす旨などの過激かつ奇矯な発言・行動を繰り返して、西側からは白眼視された。しかし、急進的な市場経済の導入や経済改革の結果生じたハイパーインフレーションに嫌気がさしていたロシア国民から、圧倒的支持を獲得した。1993年12月の下院選挙で自民党は第1党に躍進する。しかし、その後の党勢は凋落し、1995年の下院選挙では、公約にアラスカ侵攻などを訴えたがロシア連邦共産党に第1党の地位を奪われる。1996年の大統領選挙ではジリノフスキーは5.7%の得票率で第5位。その後、政府に買収されて親エリツィンに転向した。
1999年12月の下院選挙でロシア自由民主党は第6位。ジリノフスキーには、クレムリンへの忠誠の報酬として下院副議長の地位が与えられた。
2003年12月の下院選挙では、比例区で36議席を獲得した。
2007年12月の下院選挙でも7パーセント条項を超える566万823票(得票率8.14パーセント)を獲得し40議席に議席を増やした。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ロシア自由民主党公式サイト(ロシア語)
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主要政党 | 統一ロシア • ロシア連邦共産党 • ロシア自由民主党 • 公正ロシア |
少数政党 | ロシア農業党 • 市民勢力 • ロシア民主党 • 緑のオルタナティヴ • ロシア・リバータリアン運動 • ロシア再生党 • ロシアの愛国者 • 平和と統一 • 人民同盟 • 緑の党 • ロシア社会正義党 • 右派勢力同盟 • ヤブロコ |
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