レッチワース
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レッチワース(Letchworth)はロンドン郊外の都市で、エベネザー・ハワード(Ebenezer Howard, 1850-1928年)が提唱した田園都市(Garden City)の理念に基づいて建設された。
ロンドンに人口が集中し、都市労働者が環境悪化と貧困にあえぐ状況を憂いたハワードは、都市の長所と農村の長所を併せ持つ田園都市=「都市と農村の結婚」を構想し、1898年に『明日-真の改革にいたる平和な道(To-morrow;A Peaceful Path to Real Reform)』を出版、1899年には田園都市協会を設立し、啓蒙活動を行った。さらに1903年には第一田園都市株式会社(First Gardencity)を設立し、事業化に乗り出した。
レッチワースはロンドンの北方55kmほどの距離にあり、田園都市会社が農地を買収し、都市開発を行った。当初の面積は約1500haであった(後に約1800haに拡大)。
今日のニュータウンという言葉から想像されるようなベッドタウンではなく、自立した職住近接型の都市であった。計画人口は32000人。中心部に工場が置かれ、駅、商店、娯楽施設などが計画的に配置された。住宅はゆとりのある敷地に建てられ、庭に建物を建てることは規制されている。田園都市の内部には広い農地を含み、農産物の自給自足も目標になっている。また、農地を住宅地に転用することは禁止されている。田園都市の周囲を緑地帯(グリーンベルト)が取り囲んでおり、無秩序な拡大(スプロール化)を防ぎ、コミュニティの一体性を保っている。
田園都市会社は土地を所有し、地代収入を基礎として経営に当たっていた(その後公社となり、現在では財団法人)。第二次世界大戦後の法改正により借地人が土地を購入できるようになったため、現在のレッチワースも個人所有の土地が多くなっている。良好な住宅地として有名になり、一時期は開発業者の標的となった。熱心な保存運動を経て、開発を規制し、コミュニティを維持すべく努力が続けられており、今日も開発当初の姿をよく留めている。
[編集] 影響
レッチワースなどの成功はイギリス政府を刺激し、その後政府の手で30以上のニュータウン・コミュニティが建設された。日本にも大きな影響を与えており、例えば高級住宅地として知られる田園調布もその1つである。
[編集] 姉妹都市
- シャニィ, フランス;
- ヴィッセン, ラインラント=プファルツ州, ドイツ
- クリスチャンサン, ノルウェー