ラ・モンテ・ヤング
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ラ・モンテ・ヤング (La Monte Young、1935年10月14日 - ) はアメリカ合衆国の現代音楽作曲家である。
目次 |
[編集] 概略
活動初期からドローンのみに執着する特異な作品を書き、第二次世界大戦後のアヴァンギャルド音楽あるいは実験音楽における、極めて重要な作曲家のひとりである。フルクサス (Fluxus) に影響された作品とミニマル音楽作品の双方において、音楽の本質は何かと問い、通常は用いらない特殊な演奏要素にしばしば比重をおいている。フィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒ、テリー・ライリーと並んで、四大ミニマル音楽作曲家のひとりとして名高いが、必ずしも音楽の繰り返しではなく音の単音そのものなので、ミニマル学派のメンバーそのものではなくスペクトル学派の先駆者のシェルシやミュージック・セリエルの先駆者のメシアン、十二音技法の先駆者のハウアーのようなある学派を出す為のきっかけとなった作曲家という見方もある。
[編集] 経歴
ヤングはアイダホ州バーン Bern のモルモン教徒の家に生まれた。父親が職を転々としたため、幼少時には転居を繰り返したが、結局ロスアンゼルスに落ち着いた。Los Angeles City College で学び、優れたサクソホン演奏者として、エリック・ドルフィーが行った学生ジャズバンドオーディションで頭角を現した。ドルフィーだけではなく、オーネット・コールマン、ドン・チェリー、ビリー・ヒギンズのサイドでも吹いた。
その後、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校 (UCLA) 、ついでカリフォルニア大学バークレー校 (UCB) に入学して音楽を学んだ。また、リチャード・マクスフィールドと共に電子音楽を学び、ダルムシュタットでカールハインツ・シュトックハウゼンが開いた夏期コースにも参加した。この間に、サクソホンの演奏は事実上諦め、作曲に専念するようになった。アントン・ウェーベルンに加え、グレゴリオ聖歌や他のさまざまな異文化の音楽に影響された。例えばインド古典音楽、インドネシアのガムラン音楽である。こういった音楽への関心、及び音楽の間を自分の耳で聞き取りたいという願いから、1970年からはPandit Pran Nathの下で学ぶようになった(他にも妻マリアン・ザジーラ、作曲家のテリー・ライリーが参加した)。
[編集] 作品の特徴
ヤングの初期の作品はアルノルト・シェーンベルクの十二音技法を主にしている(LAでシェーンベルクの教授をうけたことがある)が、その幾つかは後に作曲家自身の手で破棄された。ダルムシュタットではシュトックハウゼンを介してジョン・ケージを知るようになり、音楽の理論面に興味を深めることとなった。また、非西洋音楽の影響で、ドローンを取り入れるようになった。
フルクサス運動に関わった後、1960年、最も良く知られた作品群「コンポジションズ 1960」を書いた。この中には、演奏会場そのものを音楽要素として強調した作品がある。演奏者には通常の楽譜の代わりに簡単な命令が書いてある。一つは「直線を描きそれを辿れ」、一つは「火をおこせ」、もう一つは「蝶を放て」。
他のアヴァンギャルドな例としては、「コンポジション 1960 #7」がある。これは必要なだけの長さの連続音が出せる楽器なら何を使っても良い(しばしばオルガンや電子的な合成音が用いられる)。スコアはCを挟んだHとFis音の完全五度が用いられ、それに「長く延ばせ」という命令が加わる。初演は4時間に及んだがドイツのデッテンハウゼンのアマチュア演奏家による再演では2時間を当てた。他の作品としては、ピアノを用いたものがある。演奏者はピアノを一番近い壁まで押すことが要求される。壁を越えて押していけるなら、押し続ける。そうでなければ、疲れ果てたので一度休み、放尿することが指示されている。この作品においても、ピアノの移動には持続音がついて回るので、聴衆は結果的にドローンのみの音響を聴くことになる。
ヤングはもっと一般的な曲も書いていた。初期の作品の中でよく知られた物に「弦楽器のための三重奏」(1958)がある。発表当時は大変斬新な作品と考えられていたが、現在ではヤングとしては保守的な作品と見られている。セリエを用いてはいるものの、厚く複雑な音楽を構成する技法のほうが目立つ。緩やかで総体としては静かな音楽であり、ドローンで満ちている。
ヤングが最初に純正律でドローンに基づいた曲を書いたのは1962年のことである。"The Second Dream of the High-Tension Line Stepdown Transformer"(「高圧送電線の降圧用変電器が見る第二の夢」)というタイトルで、これはまた電子音楽作品としても彼の最初のものである。"The Four Dreams of China" の中の一つの作品は周波数比24:32:35:36の四つの音(G, C, +Cis, D )からなり、音の組み合わせも制限した。これ以降の作品はいくつかの選択された周波数で演奏される時間的に持続したドローンに基づくようになり、その上に持続音の一群が現れ消える。"The Four Dreams of China" のためにヤングは「夢の家」を計画した。一日24時間いつでも音楽家が住み音楽を創造できるような光と音響の装備である。これらを実現するべく、The Theater of Eternal Musicを創立した。グループには最初妻のマリアン・ザジーラが参加していた。彼女は照明を用いたショー、 The Ornamental Lightyears Tracery を提供した。1965年からはAngus MacLiseとBilly Nameが参加した。1964年にはヤング、歌のザジーラの他に弦の Tony Conradと John Caleが参加し、時々歌でテリー・ライリ−も参加した。1966年からは「夢の劇場」を実現したが、金が続かなかった。
作品のほとんどには長大なタイトルがつけられている。たとえば"The Tortoise Recalling the Drone of the Holy Numbers as they were Revealed in the Dreams of the Whirlwind and the Obsidian Gong, Illuminated by the Sawmill, the Green Sawtooth Ocelot and the High-Tension Line Stepdown Transformer" (製材工場、緑の鋸歯オセロット及び高圧送電線の降圧用変電器によって照明された、旋風と黒曜石のゴングの夢の中で現れた状態の聖なる数によるドローンを思いだしている亀)。同様に、その作品はしばしば極めて長大である。始まりも終わりもなく、目の前の演奏が始まる前から存在し、それが終わっても存在するような曲が多い。ヤング夫妻は睡眠周期が長く、彼らの「一日」は24時間より長い。これらの音楽の影響はフィリップ・グラスの「浜辺のアインシュタイン」の始まり方に影響を与えた。
傑作として知られる、純正律で調律された独奏ピアノのための作品、「よく調律されたピアノ(Well-tuned Piano)」は作者本人の演奏に従うと6時間を超える長さにまでなる。厳格に構成されたインプロヴィゼイションの例であり、数学的作曲法とヒンドゥー古典音楽の演奏に強く影響されている。これはアメリカにおけるミニマル音楽の中で特に優れたものの一つである。この作品の演奏に際し、ヤングは必ずベーゼンドルファーのインペリアルを使うように念を押している。スタインウェイ全盛の北米圏に対する、ささやかなアンチテーゼのようにも映る。
[編集] 影響力
ヤングは、即興音楽のジャンルを越えて幅広い層へ大きな影響を与えた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドにおけるJohn Caleの貢献に始まり、彼自身のフォロワーであるTony Conrad、Jon Hassell、Rhys Chatham、Michael Harrison、Henry Flynt、Catherine Christer Hennixといった人々に及ぶ。ランディー・ノードショウのエレクトリック・ボウとピアノと二人の奏者の為の作品では、エレクトリック・ボウの使用によりピアノの持続音を無限に引き伸ばすことが出来るが、これもヤングの影響抜きには語れないであろう。