ヤシマナシヨナル
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ヤシマナシヨナル | |
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品種: | サラブレッド |
性別: | 牡 |
毛色: | 鹿毛 |
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生誕: | 1964年5月2日 |
死没: | 1973年1月27日 |
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父: | チャイナロック |
母: | スモールドオター |
母の父: | タカクラヤマ |
生国: | 日本(北海道浦河町) |
生産: | ヤシマ牧場 |
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馬主: | 小林庄平 →芳賀容子 →藤観興業(株) |
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調教師: | 大久保房松(中山) →藤田一百(大井) →中野要(大井) 他にもあり |
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厩務員: | |
厩務員: | {{{厩務員}}} |
競走成績 | |
生涯成績: | 83戦28勝(うち地方60戦24勝) |
獲得賞金: | 不明 一部地方競馬の記録不明の為 |
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WTRR: | {{{WTRR}}} |
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ヤシマナシヨナルは日本の競走馬である。1969年の第15回東京大賞典の優勝馬であり、戦後サラブレッド競馬の最負担重量勝利記録保持馬(76kg)で、昭和40年代の地方競馬を代表する名馬の1頭である。
[編集] 生涯
(以下は現在の国際基準で記す)
当初は中央競馬の中山競馬場の大久保房松厩舎に入厩、郷原洋行を鞍上に迎えて1967年のクラシック路線を目指した。しかし、結果的には晩成型であったためか当初は芽が出ず、この年は混戦と言われたクラシック戦線であったが弥生賞に出走した程度で、その後は中距離路線の競走馬として明けて1968年、4歳の春先まで走り続けて通算4勝を上げた。だが中央競馬のオープン級の芝の競走では荷が重いと判断されたか、地方競馬の馬主に売却され、ダート競走のみの大井競馬場に戦場を移す事になる。
大井競馬場でも転厩して4戦目に重賞の大井記念を制したものの、その後は重賞路線では勝ちきれない競馬が続く。ただし、基本は中距離路線に置いていたものの、その年の暮れの大一番、当時はダート3000mの長丁場であった東京大賞典では3着入着するなど、その素質の片鱗は見せていた。
その晩成の素質が開花したのは翌1969年の秋である。ダート1800mのオープン特別を勝つと、その後はダート1200mの東京盃、ダート2400mの東京オリンピック記念を制し、暮れには東京大賞典を制覇した。その一方で、それ以前も好走を続けていた事から、ハンデ戦では負担重量が重くなってきており、東京オリンピック記念では62kgのハンデを跳ね返しての制覇であった。
1970年も大井競馬場で現役を続行するが、南関東で最も格の高い競走である東京大賞典を制した事から大概の競走ではさらに大きな負担重量を背負わされ、最大の敵は負担重量という状態になってゆく。金盃では65kg、大井記念では67kgを背負っているが勝利は難しく、この年に大井で上げた2勝はいずれも負担重量の少ないレースで上げたものであった。
翌1971年、新春盃でも68kgを背負うなど相変わらず負担重量が厳しい為、ヤシマナシヨナルへの負担を減らすべく、陣営は他の競馬場への転厩を試みる(当時は元中央所属馬の中央競馬への再転入はできなかった)。そしてヤシマナシヨナルは宇都宮競馬場に新たな活路を求める事になった。
ところが、宇都宮競馬場で出走登録をしたところ、それまでの獲得総賞金額が宇都宮で出走するには大き過ぎた為に2月10日の初戦では74kgを背負うことになってしまう。相手関係のレベル差もありこの競走は勝利したが、次の3月10日の幸の湖特別では遂に76kgというハンデキャップになってしまった。しかし、ヤシマナシヨナルはこの競走でコースレコードで勝利。チャイナロック産駒の最大の特徴であり武器である驚異的なパワーとタフさを見せつける事となった。この76kgという斤量は、戦後サラブレッド競馬の優勝馬が背負った負担重量としては最も重いものである。
しかし、これは厳しすぎるという事で、関係者の意向もあり宇都宮ではこの2戦限りで大井に戦場を戻す。その後、この年の大井では6戦2勝という戦績であったが、その内1勝はやはり69kgを背負ってのものであり、負担重量ゆえに出走できる競走が限られる状況は変わり無かった。当時の東京大賞典については、勝ち抜け制であった事から優勝経験のあるヤシマナシヨナルには出走権が無かった。
翌1972年、8歳(旧年齢表記で9歳)になったヤシマナシヨナルは高知競馬場に戦場を移す。これはヤシマナシヨナルに高知県内での種牡馬入りの計画が持ち上がりトレードされた為で、その実現の為に高知の畜産関係者にその強さを見せる事が目的であった。この当時は高知県内でサラブレッドの生産が規模は小さいながらも行われていた。ちなみに当時の高知競馬場は現在の桂浜ではなく桟橋通にあった。
高知競馬での戦績は不明な点もあるが、記録に残る限りでは翌1973年2月までに9戦9勝をあげている。その多くが70kg前後の負担重量でのものであったといわれている。そして、1973年の春には引退し、種牡馬入りする予定であったとされる。
しかし、1973年の1月27日、高知競馬場の厩舎区画において火災が発生。折からの強風にも煽られ、たちまちに3厩舎6棟を焼き尽くした。この火災は避難させる事のできなかった14頭の競走馬が焼死するという惨事になり、ヤシマナシヨナルもこの火災に巻き込まれて焼死した。その悲運の死の一報は遠く南関東にも伝わり、全盛期を知る多くのファンを悲しませた。
[編集] 競走成績
通算63戦28勝(中央競馬23戦4勝、地方競馬60戦24勝)
主な勝ち鞍
- 東京大賞典
- 東京盃
- 東京オリンピック記念
- 幸の湖特別(宇都宮)
- 組合設立記念(高知)
[編集] 血統表
ヤシマナシヨナルの血統 (ハイペリオン系/Gainsborough4×5・5=12.50%、トウルヌソル4×4=12.50%(母内)、星旗5×4=9.38%(母内)) | |||
父
*チャイナロック China Rock 1953 栃栗毛 |
Rockfella 1941 黒鹿毛 |
Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Rockfel | Felstead | ||
Rockliffe | |||
May Wong 1934 栗毛 |
Rustom Pasha | Son-in-Law | |
Cos | |||
Wezzan | Friar Marcus | ||
Woodsprite | |||
母
スモールドオター 1955 鹿毛 |
タカクラヤマ 1947 鹿毛 |
*セフト Theft |
Tetratema |
Voleuse | |||
峰城 | *トウルヌソル | ||
月城 | |||
ミスパンシー 1946 鹿毛 |
クモハタ | *トウルヌソル | |
*星旗 | |||
第弐フリツパンシー | *シアンモア | ||
*フリツパンシー F-No.22-b |
全妹ヨシカネの仔に中山記念、ダービー卿チャレンジトロフィーを制し、種牡馬としてドージマムテキを送り出したテュデナムキングがいる。