マンスール・バーラミ
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マンスール・バーラミ |
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基本情報 |
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ラテン文字名 | Mansour Bahrami |
国籍 | イラン |
出身地 | 同・アラーク |
居住地 | フランス・パリ |
生年月日 | 1956年4月26日 |
身長 | 177cm |
体重 | 81kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1975年 |
引退年 | 1995年 |
ツアー通算 | 2勝 |
シングルス | 0勝 |
ダブルス | 2勝 |
生涯通算成績 | 122勝180敗 |
シングルス | 22勝46敗 |
ダブルス | 100勝134敗 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | シングルス出場なし |
全仏 | 2回戦(1981) |
全英 | シングルス出場なし |
全米 | シングルス出場なし |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 192位 |
ダブルス | 31位 |
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マンスール・バーラミ(ペルシア語:منصور بهرامی, Mansour Bahrami, 1956年4月26日 - )は、イラン・アラーク出身の男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手で、1989年の全仏オープン男子ダブルス準優勝者になった人である。彼はイランの選手という困難な境遇もあり、大規模なトーナメントの出場機会に恵まれなかったが、現役選手時代は“コートの魔術師”と呼ばれ、華麗な技術で観客を魅了した。自己最高ランキングはシングルス192位、ダブルス31位。ATPツアーでシングルスの優勝はなく(生涯戦績22勝46敗)、ダブルスで2勝を挙げたが、準優勝が1989年全仏オープンを含めて10度あった。
バーラミはイランの貧しい家庭で育ち、テニスのボールボーイ(球拾い)の仕事がきっかけでこのスポーツに親しみ始めた。彼には自分のラケットを買うお金もなかったため、家のフライパンを回したり、ごみ箱を漁って自分でラケットを作りながら、独学でテニスを覚えたという。後にプロ選手として多くの観客を魅了した華麗な技術は、このような創意工夫から生まれたものである。彼の少年時代はパーレビ国王の時代であり、1974年に18歳で男子テニス国別対抗戦・デビスカップに初出場したが、間もなくイラン・イスラム革命が起こり、1979年に「イラン・イスラム共和国」が成立した。革命の影響で、当地における「プロスポーツ」が全面的に禁止されたため、バーラミはイランを離れてフランスに定住し、以後は活動の拠点をフランスに移した。
バーラミがプロテニス選手として最初に出場したトーナメントは、1975年に故国イランの首都テヘランで行われた大会であったが、前述の事情のため1978年から1980年までの3年間は全く試合に出場できなかった。ようやく1981年全仏オープンを足掛かりに、彼はフランスで活動を再開する。1986年からバーラミのダブルス・キャリアは軌道に乗り始め、この年にATPツアー大会のダブルスで3度の準優勝を記録する。1987年にもダブルス準優勝が2度あり、ようやく1988年にスイス・ジュネーヴ大会のダブルスで初優勝を果たした。そして、彼の選手生活のハイライトとなった1989年全仏オープンを迎える。33歳になったバーラミはフランスのエリック・ヴィノグラツキとペアを組み、イランのテニス選手として史上初の4大大会決勝進出を成し遂げたが、決勝ではアメリカペアのジム・グラブ&パトリック・マッケンロー組に 4-6, 6-2, 4-6, 6-7 (セットカウント1-3)で敗れ、初優勝のチャンスを逃した。現在に至るまで、グランドスラム大会の決勝でプレーしたイラン人テニス選手はバーラミ1人だけである。
バーラミは男子ツアー大会でのシングルス出場機会が限られ、4大大会のシングルス出場は全仏オープンのみであった。彼のシングルス経歴は1992年で終わり、その後は1993年に創設された男子テニスのシニア・ツアーを回り始めた。ダブルスでは1995年9月のチェコ・プロステヨフ大会まで出場記録が残っている。
イランは革命のためデビスカップからも長い間遠ざかっていたが、1992年にようやくイランのデ杯復帰が実現した。1993年からバーラミも15年ぶりにデ杯復帰を果たし、41歳を迎える1997年までイラン代表選手としてプレーした。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- マンスール・バーラミ公式サイト
- マンスール・バーラミ (英語) - ATPツアーのプロフィール
- デビスカップ成績表
- NTTデータ・チャンピオンズツアー (日本語の紹介)