マリア・カロリーナ・ダズブルゴ
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マリーア・カロリーナ・ダズブルゴ(Maria Carolina d'Asburgo, 1752年8月13日 - 1814年9月8日)は、「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の十女で、ナポリとシチリアの王フェルディナンド4世および3世の王妃(両シチリア王フェルディナンド1世となるのは王妃の死後である)。マリーア・カロリーナ・ダウストリア(Maria Carolina d'Austria)とも。ドイツ名はマリア・カロリーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Karolina von Habsburg-Lothringen)。
[編集] 生涯
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが結婚直前に急死したため、急遽カロリーナがナポリへ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
粗暴で暗愚な夫に代わって政治の実権を握った。長きに渡って続いたスペインからの政治的干渉から解き放ち、前国王時代から代わり政治を牛耳っていたタヌッチを追放、兄のレオポルドにならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また子にも多く恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリア・アントニアではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フランス革命が起こると、革命側の市民たちに同情を寄せていたが、1793年のルイ16世と妹マリー・アントワネットの処刑後、態度を硬化させた。それまではナポリ国内におけるフリーメイソン活動にも力を貸しており、ナポリには女性が加入できる団体もあったという。マリア・カロリーナとフェルディナンドは震え上がり、彼女は妻に甘い夫を動かしてナポリ・シチリア合同軍を組織させ、フランス革命軍との戦いに転じた。
1799年はじめ、ナポリで革命が起こり、共和制が成立した。6月に国王派が巻き返し、フェルディナンドは実権を回復した。イギリス艦隊が入る前に国王はホレーショ・ネルソン提督と同盟を成立させており、条件付き降伏を飲んだ共和派は多くが無事にフランスへ亡命した。しかし、国内にとどまる共和派に対して国王夫妻は情け容赦なく弾圧し、数千人の共和派が捕らえられて処刑された。
1806年、フェルディナンドはナポレオン・ボナパルトにより退位させられた。しかし、マリア・カロリーナは1812年まで実権を握り続け、退位した夫が摂政に任命したフランチェスコ王子(のちの両シチリア王)をも自分の影響下に置こうとしたが、ナポリを追放された。シチリアへ移動するよう命令されたが、それを断り故国オーストリアへの亡命を余儀なくされた。妹の処刑やヴェスヴィオの噴火、ナポリ追放で精神的肉体的に弱ったマリア・カロリーナはアヘンを常用するようになっていた。晩年は家族から疎まれる存在となりウイーンにて病死した。
[編集] 子女
- マリーア・テレーザ(1772年 - 1807年) - オーストリア皇帝フランツ1世妃
- マリーア・ルイーザ(1773年 - 1802年) - トスカーナ大公フェルディナンド3世妃
- カルロ・ティト(1775年-1778年)
- マリア・アンナ(1775年-1780年)
- フランチェスコ・ジェンナーロ(1777年 - 1830年) - 両シチリア王
- マリーア・クリスティーナ(1778年 - 1849年) - サルデーニャ王カルロ・フェリーチェ妃
- マリーア・アメリア(1779年 - 1783年)
- カルロ・ジェンナーロ(1780年 - 1789年)
- ジュゼッペ・カルロ(1781年 - 1783年)
- マリーア・アマーリア・テレーザ(1782年 - 1866年) - フランス王ルイ・フィリップ妃
- マリーア・クリスティーナ(1783年)
- マリーア・アントーニア(1784年 - 1806年) - スペイン王フェルナンド7世妃
- マリーア・クロチルダ(1786年 - 1792年)
- マリーア・ヘンリエッタ(1787年 - 1789年)
- カルロ・ジェンナーロ(1788年 - 1789年)
- レオポルド・ジョヴァンニ(1790年 - 1851年)-サレルノ公
- アルベルト・マリーア(1792年 - 1798年)
- マリーア・イザベッラ(1793年 - 1801年)