マティルダ (神聖ローマ皇后)
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マティルダ(Matilda the Empress, 1102年 - 1167年9月10日)は、イングランド王ヘンリー1世とその王妃であるスコットランド王マルカム3世の娘マティルダとの間に生まれた王女。同じマティルダの名を持つ多くの歴史上の人物と区別して、モード皇后(Empress Maud、Maud はサクソン語で Matilda)として知られている。
[編集] 生涯
モードは1102年に生まれた。最初に名付けられた名前はアデレードであったが、1114年、12歳で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚して皇后(Empress)になったとき、母の名前を取ってマティルダ(モード)と改名した。1125年、夫が死ぬとイングランドに帰され、1128年にフランスに送られて10歳年少のアンジュー伯ジョフロワ4世と再婚した。1133年には長男アンリ(のちのイングランド王ヘンリー2世)を生む。
1135年に父ヘンリー1世が死ぬと、モードは夫ジョフロワと共に後継者に指名されたが、彼女の従兄であるブロワ伯エティエンヌがロンドンに入ってイングランドを掌握し、イングランド王スティーブンとなった。スティーブンはヘンリー1世の生前に王位を要求しないことを誓約していたため、モードは誓約違反をローマ教皇に訴えでたが、スティーブンはローマ教会と友好関係にあったために却下された。しかし、王位奪取の過程で教会と封建諸侯に数多くの譲歩をしたスティーブンの王権は次第に諸侯の統制を失い、1139年、モードはスティーブン王との間の戦争を始めた(スティーブン王の治世は安定する事がなく内乱に明け暮れたため、無政府時代と呼ばれている)。
モードを支持する彼女の異母兄(ヘンリー1世の庶子)グロスター伯ロバート率いるアンジュー伯派は、1141年にスティーブン王を破り、王を捕虜とする勝利を挙げた。しかしモードはスティーブンを廃位して王位に就くことはできず、「イングランド人の領主」(the Lady of the English)の称号を名乗るにとどまった。同年中にスティーブン王は解放され、まもなく内戦は再開する。スティーブン王は全くイングランド全土に対する権威を失っていたが、アンジュー伯派も国王派を制圧することができなかった。1147年にグロスター伯が死去したことにより、強力な支持者を失ったモードはフランスに帰った。1151年にはモードの夫アンジュー伯ジョフロワが死去し、アンジュー伯派の力は著しく衰える。
しかし、モードの長男アンリが成長するとともに再びアンジュー伯派は力を得はじめた。アンリはノルマンディー公・アンジュー伯・アキテーヌ公を兼ねてフランスに大勢力を築くと1153年、大軍を率いてイングランドに上陸し、スティーブン王と和解して、イングランド王位継承者として承認された。スティーブン王は翌年死去し、アンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承してプランタジネット朝(アンジュー朝)を開く。
モードはフランスにとどまったまま、1167年に死去した。
モードのアンジュー伯派とスティーブン王派との間の内戦の時代のイングランドは、エリス・ピーターズの小説、修道士カドフェルシリーズの舞台となった。