ポール・オンドーフ
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ポール・オンドーフ(Paul Orndorff、1949年10月29日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州ブランドン出身。NWA、WWE、WCWなどで活躍した名レスラー。"ミスターワンダフル" (Mr. Wonderful)のリングネームでも知られる。
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[編集] 経歴
タンパ大学時代はアメリカンフットボールで大活躍した名プレーヤーであり、卒業後はNFLでカンザスシティ・チーフス、ニューオーリンズ・セインツにも在籍している。その後ヒロ・マツダの門下生になり、1976年にプロレスデビュー。ボディビルダー顔負けの鍛え貫かれた体を武器に数多くのNWA団体で活躍した。ジョージア州ナショナルヘビー級王座を持ち、次期NWA世界ヘビー級王者候補にもあげられた事もある。
1983年にWWE(当時WWF)へ引き抜かれる。ミスター・ワンダフルのリングネームで活躍。ロディ・パイパー、ボブ・オートン・ジュニアと悪役トリオを結成して第1回レッスルマニアのメイン戦にも出場している。この時の対戦相手ハルク・ホーガンとはその後タッグとしても活動し、オンドーフの嫉妬による裏切りという王道ストーリーを経て再び熾烈な抗争を展開した。特に1986年8月に行われた金網戦はWWE史に残る有名な試合である。しかしその過酷さが伝説とすらなっている80年代のWWF全米サーキットで首を痛め、フェードアウト。1990年にWCWに登場するも、程なく退団。その後は散発的にSMWなどのインディー団体に上がった。
1993年からはWCWに復帰、ポール・ローマとのタッグチーム「プリティワンダフル」などでも活躍した。首の怪我の悪化により1995年に引退後、若手育成機関WCWパワープラントの教官を務めている。また、2005年にはWWE時代の活躍から、WWE殿堂入りを果たしている。
日本には1980年代に、新日本プロレスに数度来日した。初来日時は長州力、藤波辰巳を撃破し、新間寿は全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンの後釜候補に、アドリアン・アドニスと彼の名を挙げていた。前田日明ヨーロッパ凱旋帰国初戦の相手を務め、フライング・ニールキック、スープレックスの連続技にあっさりと破れた。また、次の来日時の再戦でも前田のジャンピング・二ーアタックを食らってのエプロン・カウントアウト負けを喫する。 一時、全日本プロレスへの参加が噂され、実際に全日の宣伝ポスターに写真が載ったことがあったらしいが、その時、実際には全日本プロレスへの参加はなかった。新日本参戦がもう少し早ければ、日本でもスター選手になってたであろうと言われている。WCWの役員として極東担当を任されていたこともある。
あまり知られていないが、1995年にWCWのマットでIWGPヘビー級王座をかけてグレート・ムタと対戦したことがある。新日本プロレス非公認であったため、勝利しても防衛回数には含まれていない(ベルトを保持していたのは武藤敬司であったため)。
[編集] 得意技
- パイルドライバー
- 彼のパイルドライバーは芸術品とも言われる。
[編集] エピソード
- 現役時代のライバル、ホーガンとは非常に仲が悪いことで有名。共にフロリダ出身でヒロ・マツダに師事しており、学生時代から顔を知っていたともいう。WWE殿堂式典の際は同じく2005年に殿堂入りしたホーガンの入退場の際、会場で一人座ったまま拍手もしなかった。さすがにホーガンから手を差し出された際には苦笑いしながら握手には応じている。