ホンダ・1300
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
ホンダ・1300(せんさんびゃく)は本田技研工業がかつて生産していた4ドアセダンおよびクーペ型の自動車。
マイナーチェンジで1,450cc水冷エンジンを得て「ホンダ・145」という名称に変わったが、基本的には同じ車である。 駆動方式はフロントエンジン・フロントドライブ。
目次 |
[編集] 概要
- 左右に分かれたフロントグリルなど、クセのある顔つき(スポーツ・グレード系)
- 本田宗一郎のこだわりとして、DDAC(デュオ・ダイナ・エア・クーリング)と呼ばれる強制空冷の直4 SOHC 8バルブクロスフローエンジンが採用され、77 SEVENTY SEVEN シリーズ(シングルキャブ仕様:100PS/7,200rpm)と99 NINETY NINE シリーズ(4連キャブレター仕様:115PS/7,500rpm)とが設定された。搭載されたエンジンは当時の1,300ccエンジンとしては驚異的な馬力を発生し、DOHCエンジンに匹敵する高回転設計を誇っていた。それらは、ファミリーカーにも関わらずオールアルミ製のドライサンプ構造であった。その結果、構造があまりにも複雑で重く、フロントまわりの重量がかなり重くなり、アンダーステアが強いハンドリングを持った車となっていた。
- 後に発売となるクーペモデルは、coupe 7(シングルキャブ仕様:95PS/7,000rpm)とcoupe 9(4キャブレター仕様:110PS/7,300rpm)との2車種。
- PCDが120.0mmという特殊な規格のホイールハブを採用(ちなみに初代シビックおよび初代アコードもこのホンダ・1300用のホイールハブを流用していた)。
[編集] 歴史
- 1969年5月、ホンダ初の4ドアセダンとして登場。
- 1970年1月、中・低回転域のトルクを重視するため、77シリーズは95馬力に、99シリーズは110馬力にそれぞれパワーダウン。同時にサスペンションもエンジンパワーに合わせられた。
- 1970年3月、セダンをベースにした2ドアクーべを追加。丸目4灯式へッドライトの精悍な顔つきでセダン同様に95馬力仕様はクーペ7、110馬力仕様はクーペ9である。インパネのセンター部分がドライバー向きにオフセットされている「フライト・コックピット」。同時に77/クーペ7に3段自動変速機仕様のAT車が追加される。AT仕様の77セダン/クーペ7は長方形の扇形スピードメーターと2本スポークタイプのステアリングを装備。
- 1970年11月、セダンがマイナーチェンジされ、全車丸目2灯式へッドライトになる。フロント/リヤセクション及びインパネを大幅に変更する大掛かりなマイナーチェンジとなる。同時に110馬力仕様の99シリーズは廃止され、95馬力の77シリーズに一本化。
- 1971年6月、クーペのマイナーチェンジで「ホンダクーペ」と呼ぶようになる。従来型の丸目4灯ヘッドライト車は「ダイナミックシリーズ」に改め、セダンと同じ丸目2灯式ヘッドライト車は「ゴールデンシリーズ」として追加モデルとなった。110馬力の4連キャブレター仕様のグレードはダイナミックシリーズのGTLのみとなり、それ以外は95馬力仕様となる。
- 1972年11月、排ガス対策が困難なうえ、コストがかかるなDDAC空冷エンジンを初代シビックのエンジンの排気量アップ仕様の水冷直4SOHC1,433ccのEB5型(80/クーペの機械式燃料噴射装置車のFI(Fuel Injection)は90馬力)に換装し、車名を「ホンダ・145」に変更。同時にクーペはマイナーチェンジで角目2灯式ヘッドライトに変更される。
- 1973年5月、145にホンダマチック車を追加。
- 1973年12月、145セダンが生産中止。1977年11月のアコードサルーン登場までホンダのラインナップから一時的に3BOXセダンがなくなる。
- 1974年10月、クーペも生産中止。これでホンダの小型車のラインナップはシビックに一本化。1978年のプレリュード登場でホンダのクーペとして再度登場。
[編集] 逸話
1300開発時にあった有名な出来事は、エンジンの冷却方法について対立したことであった。「水でエンジンを冷やしても、その水を空気で冷やすのだから、最初から直接 空気でエンジンを冷やしたほうが無駄がない」という宗一郎の主張と、「水冷のほうがエンジン温度を制御しやすい」という若手技術者の主張がぶつかり合い、当時技術者だった久米是志(後の3代目社長)は辞表を残して出社拒否をしたほどであった。あくまで空冷にこだわる宗一郎に対して技術者達は、副社長の藤沢武夫に、宗一郎に水冷エンジンにしてくれるよう説得を頼み、藤沢は電話で宗一郎に「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらなんだ?」と問い質し、宗一郎は自分が社長だという事を改めて認識し若手技術者の主張を認める事となり、145では水冷エンジンが搭載されることになったという。