ペナン沖海戦
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ペナン沖海戦 | |
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ペナン沖海戦で撃沈された「羽黒」 |
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戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1945年5月16日 | |
場所:マレー半島ペナン島沖 | |
結果:イギリスの勝利 | |
交戦勢力 | |
日本 | イギリス |
指揮官 | |
橋本信太郎中将 | マンリー・L・パワー大佐 |
戦力 | |
重巡洋艦1 駆逐艦1 |
駆逐艦5 |
損害 | |
重巡洋艦1 | なし |
ペナン沖海戦(ペナンおきかいせん)は第二次世界大戦中の1945年5月16日にマレー半島北西岸、マラッカ海峡内に位置するペナン島沖で起きた日本海軍とイギリス海軍との間の海戦。第二次世界大戦中、最後の水上戦闘である。
目次 |
[編集] 背景
1945年2月の時点で、シンガポールにあった日本海軍の艦艇は第10方面艦隊(福留繁中将)に編成されていた。このうち健在なのは重巡洋艦「羽黒」、「足柄」、駆逐艦「神風」のみで、「高雄」「妙高」は行動不能、その他の南西方面艦隊に属していた艦は北号作戦に参加して日本本土に帰還していた。第10方面艦隊は日本陸軍よりアンダマン諸島への輸送の要請を受け、「羽黒」と「神風」に一部の武装を撤去して、弾薬、食料、燃料などの物資を搭載して出撃させた。物資輸送後は、アンダマン諸島に配置されていた一部の兵力を乗船して帰還する予定だった(に号演習)。
イギリス海軍の主力は1944年末から太平洋方面へ転戦。1945年1月からスマトラ島、ジャワ島空襲、3月からは沖縄攻撃を始めた。一方、インド洋の東洋艦隊もビルマの首都ラングーン占領のため増強され、4月に南部ビルマで防戦を企図していた日本陸軍が総崩れとなり、5月2日(3日)にイギリス陸軍第14軍がラングーンを占領した。
[編集] 参加兵力
[編集] 日本海軍
- 第10方面艦隊 第5戦隊 - 司令官:橋本信太郎中将
- 重巡洋艦:羽黒、駆逐艦:神風
[編集] イギリス海軍
- 第61部隊 第26駆逐隊 - 司令官:マンリー・ロレンス・パワー大佐 (Manley Laurence Power)
- 駆逐艦:ソマレズ (HMS Saumarez)、ヴェルラム (HMS Verulam)、ヴィジラント (HMS Vigilant)、ヴィーナス (HMS Venus)、ヴィラーゴ (HMS Virago)
[編集] 経過
5月12日、「羽黒」「神風」の第5戦隊がシンガポールを出航。この動きを潜水艦「ステイツマン」、「サトル」から通報されたイギリス海軍の東洋艦隊は、要撃のため「デュークダム作戦」 (Operation Dukedom) を計画し、ラングーン占領支援を行っていた戦艦「クイーン・エリザベス」、「リシュリュー」を基幹とする第61部隊に要撃を命じた。14日にイギリス第61部隊は第21護衛空母群の艦載機から位置を知らされ、「羽黒」を攻撃する為にマンリー・パワー大佐指揮の第26駆逐隊を分派する。翌15日に第5戦隊も陸軍哨戒機よりイギリス艦隊の存在を知らされ、アンダマン諸島行きを中止し、ペナンへ退避を開始した。
16日、派遣されたイギリス第26駆逐隊のレーダーに捕捉される。2時10分、「羽黒」もレーダーでイギリス駆逐艦を発見し離脱を図った。しかし「羽黒」はスクリューシャフトに損傷を抱えたまま作戦に投入されたため全速が発揮できない状態だった。離脱を断念した「羽黒」は、接近する英艦隊に対しスクリューシャフトからの振動で照準に支障をきたしたまま砲撃を行ったが命中せず、逆に5隻のイギリス駆逐艦の放った魚雷のうち1本が「羽黒」に命中した。橋本中将は「神風」に離脱を命じ、2時50分に「神風」は離脱した。「羽黒」は第26駆逐隊の集中攻撃を受け炎上、傾斜、沈没した。「神風」はペナンに退避し、陸揚作業の後、戦場へ引き返して「羽黒」の生存者救助を実施。 17日、シンガポールへ撤退した。
[編集] その後
イギリス軍はマレー及びシンガポールの奪回へ向けて「ジッパー作戦」 (Operation Zipper) を計画していた。作戦は当初6月初めに前進航空基地としてプーケット島の占領を計画していたが、計画は変更されて空母部隊の支援だけを行うことになった。予定では1945年9月9日にクアラルンプール南西岸に上陸作戦を行い、9月末頃シンガポールを奪回することとなっており、参加兵力として4個歩兵師団、1個機甲旅団他が準備された。8月にはイギリス東洋艦隊の大部分は作戦を準備中であったが、8月15日、ルイス・マウントバッテン司令官は全ての作戦の中止を命令した。
[編集] 外部リンク
- HIJMS HAGURO: Tabular Record of Movement, www.combinedfleet.com(英語)