フレデリク4世 (デンマーク王)
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フレデリク4世(1671年10月11日 - 1730年10月12日)はデンマークとノルウェーの王(在位:1699年 - 1730年)である。
フレデリクはクリスチャン5世の息子で、スウェーデン王カール12世と女王ウルリカ・エレオノーラの従兄である。彼はルイーゼ・フォン・メクレンブルクと1695年12月5日に結婚し、クリスチャン5世を含む5人の父親となった。ルイーズ王妃が1721年3月15日に死ぬと、愛人アンナ・ソフィー・レーヴェントローと1721年4月4日に再婚した。彼女との間には3人の子供が生まれた。
フレデリク4世治世のデンマークの大半がスウェーデンとの大北方戦争(1700年-1721年)の時代であった。1700年のはじめの短期の参戦は、西方海軍によるスウェーデンの侵略と脅迫で終わった(トラヴェンタール条約)。
1709年デンマークは再び、スウェーデンのポーランド撃破で進められた戦争に突入した。翌1710年、フレデリクは、国王不在のスウェーデンに侵攻を試み、かつての領土であったスコーネに上陸した。しかし対防衛戦争となったヘルシンボリの戦いでマグヌス・ステンボック将軍に大敗を喫するのである。以降、デンマークはスウェーデンに挑戦する力を失ってしまうのである。スコーネへの侵攻は、これが最後となった。
フレデリク4世は1712年のガーデブッシュの戦い(Battle of Gadebusch)においてデンマーク軍を指揮したが、デンマークはこの戦いで敗北し、スウェーデン侮り難しの印象を受けることとなった。1716年には、エーレスンド海峡が氷結し、スウェーデンによる氷上侵攻の脅威にさらされ、さらにノルウェー侵攻も受けたが、カール12世の死によって救われた。デンマークは戦勝国側についたが、南スウェーデンの失地回復に失敗し、戦勝国の一員に加わることが出来なかった。
最も重要な結果はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国内のゴットルプ公領の滅亡であった。以後、公国はデンマークの宗主下に置かれるが、公国の君主ホルシュタイン=ゴットルプ家を通じてロシア帝国の影響も受ける様になるのである。幸運だったのは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国から、1714年にヘルゴランド島を獲得し、戦争終結後にスウェーデンがエーレスンド海峡の通行税の負担を申し出たことで、フレデリク4世の体面だけは保てたと言える。
戦争の後の歳月の間に、貿易と文化は興隆した。デンマークの劇場は創られ、偉大な演劇家ルズヴィ・ホルベアはそのキャリアを始めた。グリーンランドの再植民地化もまた宣教師ハンス・エゲデによって始められた。政治的にはこの時代は、王の最後の王妃の親戚、ホルシュタイン=レーフェントロー家とのつながりと古い貴族たち全員に対する疑惑の増大によって特筆される。
フレデリクは責任感があり勤勉な人物と考えられており、しばしばデンマークの絶対君主の中では最も知性があると指摘されるが、彼は大臣たちの独立を維持する能力を有しているようであった。学術的知識への興味はまったくないにも拘わらず、彼は文化の導入、特に芸術と建築、には熱心な人物であった。
フレデリクの主な弱点は、もしかしたら、時々気を紛らわすための、享楽、漁色であろう(フレデリクはデンマークの歴代君主で唯一2度重婚をした人物として知られる)。
フレデリクの晩年は、彼の弱い健康と彼を敬虔主義を学ばせたさせた私生活での悲しみによって影響された。その敬虔主義は、彼の息子の治世で勝利する。
フレデリクの最も重要な国内での改革は、「フェルントシップ」(vornëdshipデンマーク語:vornedskab)と呼ばれる中世のおわりシェラン島の小作農に転落した農奴制の一種を1702年に廃止したことである。しかし全てが、1733年の(adscription)の導入ゆえに、無駄になった。
フレデリクの統治した時代コペンハーゲンは2つの災害に遭った。1つは1711年のペスト禍で、もう1つは1728年10月の、首都の中世の町並みを破壊した大火である。
1730年に亡くなるとロスキルデ大聖堂に葬られた。
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