バッキー・ハリス (日本)
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バッキー・ハリス("Bucky" Harris McGalliard, 1908年9月25日 - 1978年5月20日)はアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス生まれのプロ野球選手(捕手)。右投げ右打ち。
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[編集] 人物・来歴
南カリフォルニア大学からアメリカマイナーリーグに入り、メジャー昇格を目指すも叶わず。ロサンゼルスの日系チーム「L・A NIPPON」に所属していた1934年、アメリカ遠征に来ていた大日本東京野球倶楽部と対戦。日本国内で初のプロ野球リーグ戦が始まった1936年、名古屋軍総監督の河野安通志が鈴木惣太郎に外国人選手の紹介を頼んだところ、鈴木は1934年に対戦したハリスを河野に薦めた(鈴木は球団代表として1934年の米国遠征に同行していた)。
1936年春季からリーグ戦に参加。同年春・夏通算打率が.348、秋季も.310を記録。翌1937年、河野が結成した後楽園イーグルスへ移籍。1937年秋季には打率.310を記録した打撃に加え、強肩から繰り出される各塁への正確な送球が評価され最高殊勲選手(MVP)に選出。翌1938年春季は本塁打王に輝くなど、攻守両面で活躍した。1938年秋季限りで退団、帰国した。
「バッキー・ハリス」という名前は本名ではなく、メジャーリーグの名選手であるバッキー・ハリス (メジャーリーグ)の名を名乗ることで話題性を期待したことによる。来日すると熱心に日本語を勉強し、マスク越しに突如日本語の歌を歌い出し打者を混乱させたり、走者で塁に出ると相手投手に向かって「ちょっとそのボールを見せて」と話しかけ、投手がハリスに向かってボールを転がした瞬間に次の塁に向かって走り出すなど、ユニークなトリックプレーを見せた。
ハリスの退団、帰国は当時の日米関係が悪化の一途をたどっていたことも影響している。ナインとの別れの日、ハリスは「さようならと言えないほど」大変に悲しんだという。
晩年には日本シリーズに招待され、約40年前に本拠地球場であった後楽園球場の人工芝を見て感激しきりであった。1978年、水上事故がもとで逝去、享年69。
[編集] 通算成績
[編集] 通算打撃成績
- 通算試合 180試合
- 通算打率 .309
- 通算安打 220本
- 通算本塁打 13本
- 通算打点 103打点
- 通算盗塁 24盗塁
- 通算犠打 12個
- 通算犠飛 (集計以前)
- 通算四球 65個
- 通算死球 5個
- 通算三振 41三振
- 通算併殺打 (集計以前)
[編集] 通算投手成績
- 通算登板 1
- 通算完投 0
- 通算完封勝 0
- 通算無四球試合
- 通算勝利 0
- 通算敗北 0
- 通算セーブ (導入以前)
- 通算セーブポイント (導入以前)
- 通算勝率 .000
- 通算投球回 3
- 通算被安打 2
- 通算被本塁打 0
- 通算与四球 0
- 通算与死球 0
- 通算奪三振 3
- 通算防御率 0.00
[編集] タイトル・表彰
- 最多本塁打 1回(1938春)
- 最高殊勲選手 1回(1937秋)
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