ジョー・ナックスホール
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ジョー・ナックスホール(英語:Joseph Henry Nuxhall, 1928年7月30日 - 2007年11月15日)は、アメリカ・元メジャーリーグの投手。通算成績は135勝117敗、防御率は3.90であった。シンシナティ・レッズ時代の1944年6月10日、メジャーリーグ史上最年少(15歳10ヶ月11日)で出場したことで知られている。引退後はレッズ向けのラジオ解説者として活躍した。
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[編集] 人物・来歴
[編集] メジャーリーグ入りまで
1928年、オハイオ州ハミルトンで生まれた。中学3年生の時には身長6フィート2インチ(約188cm)、体重190ポンド(約86kg)に成長し、制球に難があるものの速球派左腕となっていた。当時、既に父親と共に数年間セミプロのリーグでプレーしている。一方、第二次世界大戦が始まると、メジャーリーグでは多くの選手が兵役に服し、選手の確保が困難な状況にあった。1943年、シンシナティ・レッズのスカウトが父親のオービル・ナックスホールに目をつけたが、「5人の子供を抱えているため」とプロ契約へのサインを拒まれてしまう。そこで、スカウトは当時14歳であったジョーに関心を持つようになった。
1944年2月18日、シンシナティ・レッズと契約を結んだ。ゼネラルマネージャーのウォーレン・ジャイルズは、学校を卒業する6月まで待ってチームに合流させるつもりであったが、結局高校の校長から許可を貰い開幕の時点でユニフォームに袖を通すこととなった。
[編集] 15歳でのメジャーデビュー
私は、中学1年生から3年生、たかだか13,4歳の子供を相手に投げていたんです...。それが突然、目の前にはスタン・ミュージアルや彼のような選手たちがいる。それはとても恐ろしいシチュエーションでした。[1] |
1944年6月10日、シンシナティ・レッズはクロスリー・フィールドで首位セントルイス・カージナルスと対戦した。カージナルスに13-0と大量のリードを許したレッズは9回、ビル・マケシュニー監督がナックスホールをマウンドに送った。
先頭打者の遊撃手ジョージ・ファロンを内野ゴロに打ち取ったものの、その後なかなかアウトが取れない。5つの四球と2本のヒット、そしてワイルドピッチによって5点を失い、イニング途中で降板となった。ナックスホールはシーズンの残りの期間をマイナーリーグで過ごすこととなった。ナックスホールの次に登板し最後のアウトを取ったジェイク・アイゼンハートも、ナックスホールと同じくこの日がデビュー戦で、さらに同じようにマイナーに降格している。しかし、アイゼンハートは再びメジャーに昇格することができなかったものの、ナックスホールは後述のようにメジャーに復帰することとなる。
この時のナックスホールの年齢(15歳10ヶ月11日)は、1901年以降における最年少出場記録として今なお残っている。なお近代以前では、1887年にフレッド・チャップマンが14歳の時に投手として出場し、5イニングを投げた記録が残っている。
[編集] マイナーリーグ時代
レッズでの出場後、マイナーサザン・リーグのバーミンガム・バロンズに所属することとなった。しかし、ここでも1/3回5失点を投げただけにとどまっている。翌1945年、レッズの春季キャンプに参加するものの、高校を卒業するまでプロとして活動しないことを決めた。1946年、アマチュアに戻ったナックスホールは、ハミルトン高校の学生として野球のほかにサッカーやバスケットボールに精を出し、サッカーとバスケットボールでは州で優勝している。その後5年間、ナックスホールはマイナーリーグに在籍し、シラキュース、リマ、マンシー、コロンビア、チャールストン、タルサでプレーした。
[編集] メジャー復帰
1952年、メジャーに復帰したナックスホールは、引退までの16年間のうち15年をレッズで過ごすことになる。この間、2度ナショナルリーグのオールスターに選ばれるとともに、1955年には完封でリーグ1位を記録している。1966年のシーズンを最後に引退するまでの間、カンザスシティ・アスレチックスやロサンゼルス・エンゼルスでもプレーしている。
[編集] 引退後
1967年春、正式に引退する。解説者としての経験が無かったものの、すぐにレッズ専属の解説者となった。ラジオ放送終了時の決まり文句、「This is the old lefthander, rounding third and heading for home」は、2003年に開場したグレート・アメリカン・ボール・パークの外側に掲げられている。また、球場の正面入口には4つの彫像があるが、このうち1つがナックスホールの像である。1968年、ナックスホールはシンシナティ・レッズの殿堂入りを果たす。メジャーリーグデビューから60年目の2004年10月3日、解説者を引退し(ゲストとしてはその後も何度か放送に参加している)、正式にレッズから離れることとなった。2007年6月10日、レッズはナックスホールやウェイト・ホイトらの功績を讃え、球場のラジオブースの近くに放送マイクのレプリカを飾っている。
2007年11月15日、癌のため死去。シンシナティ地域にあるいくつかのラジオ局は、数日間彼のために番組を放送し、球場にある彼の彫像にはファンからのカードや花、横断幕などが多数寄せられた。
[編集] 関連書籍
- Greg Hoard『Joe: Rounding Third & Heading for Home』Orange Frazer Press、2004年、ISBN 1-882203-37-2
- 本の売り上げの一部は、2003年に設立された人材開発プログラムに贈られている。