ジョン・コシンスキー
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ジョン・コシンスキー(JOHN KOCINSKI, 1968年3月20日 - )は、アメリカ合衆国、アーカンソー州・リトルロック出身のオートバイ・ロードレースライダー。1990年ロードレース世界選手権250ccチャンピオン。1988年のGP250デビュー(スポット参戦・GP250)以来、クラス・車両を問わず勝ち星を挙げた。有り余る才能と相反するエキセントリックな性格ゆえにタイトルには縁が薄かった選手である。
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[編集] スタイル
コーナリング初期からコーナリング中、脱出と全てにおいて満遍なく強く、かつ接戦にも強い。 ケニー・ロバーツ (シニア)のライディング理論を完璧に体現して見せた、「ヤング・キング」。 また身長が低いこともあいまって、大きくリーンインしたフォームが特徴的である。
[編集] 経歴
すべてのアメリカンの例に漏れず、幼少時よりダートレースを開始。 AMAにおいて、250ccクラスで活躍しつつ、1988年~1989年は全日本選手権ロードレースおよびロードレース世界選手権へのスポット参戦を行う。そこで見せた驚異的な速さゆえに、ケニー・ロバーツ (シニア)の秘蔵っ子と呼ばれる。
1990年、満を持してロードレース世界選手権GP250クラスにフルエントリー。7勝をあげ、圧倒的な強さでチャンピオンを獲得。翌1991年GP500へとコンバート。1勝と表彰台4回の成績を収め神童振りを発揮する。だが、チームオーナーであるケニー・ロバーツ (シニア)との確執が決定的となり1992年は最終戦で優勝を遂げるものの成績が低迷。放出の憂き目に遭う。
1993年は心機一転、ラッキーストライクスズキチームのエースとしてロードレース世界選手権GP250にエントリー。光る快速を見せながらも、マシン開発の遅さに業を煮やし、オランダGPレース後、マシンをバーンナウトさせたうえに破壊し解雇されてしまう。結局カジバに移籍し、GP500へ出戻りアメリカGPで1勝。翌年1994年はカジバからフルエントリーし、上位を争うもののこんどはカジバがGPを撤退してしまう。こうして、コシンスキーは速さがありながら噛みあわない状況に陥ってゆく。
その後、WSBに転向しチャンピオンを獲得後、WGPへと復帰を果たすが、かつての速さは二度とよみがえらなかった。 1999年を持ってWGPを引退。「もう、GPを走ることはない」と吐き捨ててGPシーンを去っていった。
[編集] エピソード
- 上記のエピソードが原因でシュワンツに殴りかかり、返り討ちにされたこともある。
- ヘルメットカラーは白頭鷲をモチーフにしている。これは師匠であるケニー・ロバーツのデザインを受け継いだものである。
このことから、ロバーツの彼にかける期待と愛情はなみなみならないものであったことが伺える。
[編集] 戦績
- 1987年 - 鈴鹿8時間耐久オートバイレース3位(カル・レイボン/ラッキーストライク・ヤマハ/YZF750)
- 1989年 - 鈴鹿8時間耐久オートバイレース リタイア(平忠彦/資生堂TECH21レーシングチームヤマハ/YZF750)
- 1990年 - ロードレース世界選手権GP250ccチャンピオン(マールボロ・ロバーツヤマハ/YZR250)
- 1991年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング4位1勝(マールボロ・ロバーツヤマハ/YZR500)
- 1992年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング3位1勝〔南アフリカGP〕(マールボロ・ロバーツヤマハ/YZR500)
- 1993年 - ロードレース世界選手権250cc ランキング12位(ラッキーストライク・スズキ /RGV-Γ250)
- ロードレース世界選手権500cc ランキング11位1勝〔アメリカGP〕(カジバ/C593V)
- 1994年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング3位(カジバ/C594V)
- 1996年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング3位(カストロール・ホンダ/RVF750)
- 1997年 - スーパーバイク世界選手権 チャンピオン(カストロール・ホンダ/RVF750)
- 1998年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング12位(テレフォニカ・モビスター・ホンダ/NSR500)
- 1999年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング8位(テレフォニカ・モビスター・ホンダ/NSR500)
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