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ジャック・ジョンソン (ボクサー) - Wikipedia

ジャック・ジョンソン (ボクサー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジャック・ジョンソン

基本情報
本名 ジャック・アーサー・ジョンソン
通称 ガルベストンの巨人
階級 ヘビー級
国籍 アメリカ合衆国
誕生日 1878年3月31日
出身地 テキサス州ガルベストン
命日 1946年6月10日
死地 ノースカロライナ州ローリー
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 124
勝ち 100
KO勝ち 51
敗け 14
引き分け 14
無効試合 14

ジャック・ジョンソン (Jack Johnson1878年3月31日-1946年6月10日)、本名ジョン・アーサー・ジョンソン(John Arthur Johnson)は、「ガルベストンの巨人」のニックネームでもよく知られている、おそらくその時代もっとも強かったアメリカヘビー級ボクサーである。彼は黒人としては初めての世界ヘビー級チャンピオン(1908年-1915年)となり、そのことは当時非常に大きな論争の的となった。その生涯をたどったドキュメンタリーにおいて、ケン・バーンズは、「13年以上にわたり、ジャック・ジョンソンは地球上で最も有名であると同時に、最も悪名高い黒人であった」と評した[1]

目次

[編集] 生い立ち

ジャック・ジョンソンは、ヘンリー・ジョンソンと妻ティナの第2子にして最初の息子として、テキサス州ガルベストンで生まれた。両親は元奴隷の敬虔なメソジストであり、6人もの子供(ジョンソン夫妻には9人の子供が生まれ、成人する前に4人の子どもが亡くなったが、養子が1人いた)を養いながら読み書きを教えるために、2人とも肉体労働者として働いた。ジャック・ジョンソンは5年間正式の教育を受けた[1]。ジョンソンはやがて、神は存在せず教会は人々の生活を支配していると主張するようになり、教会から破門された[要出典]

ジョンソンが初めての試合を戦い、16ラウンドで勝利を収めたのは15歳の時であった。彼は1897年ごろにプロへ転向し、私立のクラブで戦うことにより、それまで見たこともないほどの大金を稼ぐようになった。1901年、小柄なユダヤ人のヘビー級ボクサーであったジョー・コインスキが、ジャック・ジョンソンを訓練するためガルベストンにやってきた。コインスキは経験豊かなボクサーであり、3ラウンドのうちにジャック・ジョンソンをノックアウトした。このとき2人は「違法試合」の咎で逮捕され、23日間刑務所に収容された(この当時ボクシングは野球や競馬と並んでアメリカでポピュラーな3大スポーツであったが、テキサスを含め多くの州において、試合は公的には違法なものであった)。コインスキは刑務所内でジャック・ジョンソンの訓練を始めたが、このときには逮捕されなかった[1]

[編集] プロボクサーとしての経歴

ジョンソンのファイティング・スタイルは非常に特徴的なものだった。彼はそのころ慣習的であったスタイルよりも忍耐的なアプローチを取った。すなわち、防御的に立ち回って相手のミスを待ち、それを利用するというものである。ジョンソンは常に用心深く試合を始め、ラウンドを重ねるにつれ徐々に攻撃的なファイターになっていった。彼は対戦相手の攻撃を避けては素早いカウンターを浴びせるという攻撃を繰り返したため、相手を一撃でノックアウトするよりも執拗に打ち込むことが多かった。彼は挑みがたい印象を常に与え、勢いに乗ったときには強烈なパンチを繰り出すことができた。

ジョンソンのスタイルは非常に効果的であったが、白人の報道陣からは臆病で卑怯なものだと批判された。対照的に、10年前から同様のテクニックを用いていた白人の世界ヘビー級チャンピオンで「ジェントルマン・ジム」の異名を取っていたジェームス・J・コーベットについては、白人のプレスは「ボクシング界の最も賢明な男」と賞賛していた[1]

1902年までに、ジョンソンは対白人戦・対黒人戦合わせて50以上の試合で勝利を収めた。1903年2月3日、ジョンソンは20以上のラウンドを重ねて“デンバー”エド・マーティンを破り、初のタイトルとなる世界黒人ヘビー級チャンピオン(当時の黒人ボクサーは黒人用のタイトルしか取得できなかった)の座に就いた。ジョンソンは完全なタイトルを手に入れようと試みたが、世界ヘビー級チャンピオンであったジェームス・J・ジェフリーズがジョンソンとは戦おうとしなかったため、果たすことができなかった。黒人はタイトル戦以外の舞台でならば白人と対戦することができたが、アメリカにおいてヘビー級チャンピオンという座は大変な栄誉であり、黒人がそれを競い合うに値するなどととはまったく考えられていなかった。しかし、ジョンソンは1907年に前チャンピオンのボブ・フィッシモンズと対戦する機会を得て、2ラウンドでフィッシモンズをノックアウトした[1]

ジョンソンは1908年12月26日にようやく世界ヘビー級のタイトルを手に入れた。カナダ人のチャンピオン、トミー・バーンズを世界中追い掛け回して公の場で罵りつづけ、オーストラリアシドニーでの試合に持ち込んだのである。試合は20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズのマネージャーが務めたが、ハンデにはならなかった。ジョンソンは今までの恨みを晴らすかのようにバーンズをいたぶり続け、見かねた警官が乱入して試合をやめさせた14ラウンドまでそれは続いた。これによりレフェリーはTKOの裁定を下してタイトルはジョンソンのものとなったが、それまでにジョンソンは何度もチャンピオンを打ちのめしていた。試合中、ジョンソンはバーンズとそのリングサイドのクルーを嘲っていた。バーンズが崩れ落ちそうになるたびに、ジョンソンは彼を掴まえてもう一度立たせ、さらに攻撃を加え続けた。ジョンソンがフィニッシュを決める瞬間、バーンズの敗北を映し出さないためにカメラが停められた[1]

ジョンソンがバーンズに勝利してからというもの、白人の間では人種的な憎悪の念が広まり、ジャック・ロンドンのような社会主義者でさえ、ジョンソン(類人猿とまで戯画化された)からベルトを奪取し、それを本来保持すべき「優生種」の白人の元へもたらす「グレート・ホワイト・ホープ」(Great White Hope 、白人の期待の星)の到来を切望した。そのため、ジョンソンはこうした「グレート・ホワイト・ホープ」としてプロモーターが用意した数多くの選手と立て続けに試合をさせられたが、その多くはエキシビジョン・マッチであった。1909年だけでも、ジョンソンはヴィクター・マクラグレン、フランク・モラン、トニー・ロス、アル・カウフマン、ミドル級チャンピオンのスタンリー・ケッチェルらを退けた。ケッチェルとの試合では両者とも最後まで熱烈な戦いを繰り広げたが、最終12ラウンドにケッチェルがジョンソンの頭に右パンチを叩き込み、ジョンソンからダウンを奪った。ゆっくりと立ち上がったジョンソンはケッチェルの顎にストレートを放ち、何本かの歯と一緒にマットへ沈めた。フィラデルフィア・ジャック・オブライエンとの試合はジョンソンにとっては不本意なものであった。オブライエンの161ポンドに対して205ポンドと体格差の利のあったジョンソンは、この試合に6ラウンド引き分けという結果しか残すことができなかったのである。

[編集] 世紀の決戦

ジョンソンとジェフリーズの試合、1910年。
ジョンソンとジェフリーズの試合、1910年。

1910年、無敗のまま引退していた元ヘビー級チャンピオンのジェームス・J・ジェフリーズが現役復帰を宣言し、「私は白人が黒ん坊よりも優れていることを証明する、ただそのためだけにこの試合を戦う」と言い放った[2]。ジェフリーズは6年間試合から遠ざかっており、復帰して試合に臨むためには100ポンドも減量する必要があった。

試合は1910年7月4日、ネバダ州リノの中心部に作られた特設リングで22,000人の観客を前に行なわれた。リングサイドの楽団は "All coons look alike to me" (クーン・ソング (Coon song) と呼ばれる、人種的偏見に基づいて黒人を嘲弄した歌)を演奏していた。

この試合は人種間の緊張関係の温床の相を呈し、プロモーターは白人で埋め尽くされた客席を煽動して "kill the nigger" の大音声を繰り返させた[3]。しかし試合が始まってみれば、ジョンソンの方がジェフリーズよりも強く、機敏であることは明らかとなった。第15ラウンド、その経歴を通じて初めて1ラウンドに2回のダウンを喫したジェフリーズのセコンドは、ジョンソンによるKOだけは避けようと判断して試合を放棄した。この「世紀の決戦」によりジョンソンは225,000ドルの賞金を得ただけでなく、批判者たちをも沈黙させた。彼らは、前王者バーンズはジェフリーズが無敗のまま引退したおかげでベルトを手にした偽者のチャンピオンだと主張し、したがってジョンソンがバーンズを倒してチャンピオンになったとはいえ、そんな勝利など「無内容」だと過小評価していたのである。

[編集] 暴動とその余波

試合の行なわれた7月4日の夜、テキサス州コロラド州からニューヨークワシントンD.C.に至るまで、合衆国中で人種暴動が引き起こされた。ジェフリーズに対してジョンソンが勝利したことにより、ジョンソンを打ち倒す「グレート・ホワイト・ホープ」を見つけ出すという白人たちの夢は挫折した。多くの白人たちはジェフリーズの敗北に屈辱を覚え、ジョンソンのコメントに怒り狂った[1]

一方黒人たちは歓喜して、ジョンソンの偉大な勝利を長く虐げられてきたその人種全体の勝利として祝った。黒人の詩人ウィリアム・ウェアリング・クーニーはのちに自作の詩 "My Lord, What a Morning" において、この試合に対するアフリカ系アメリカ人の反応を強調した。

国中で黒人たちが自然発生的なパレードを行ない、祈祷所に集合し、ギャンブルの配当金によって買い物などをした。こうした浮かれ騒ぎに対して白人から暴力的な反応が示されることもあった。ただし「暴動」と呼ばれている動きのいくらかは、たんに黒人たちが路上でどんちゃん騒ぎをしたというだけのものである。シカゴなどいくつかの都市では、警察も黒人たちがこうしたお祭り騒ぎを続けることを許可した。しかしそれ以外の都市では、警察や怒りに駆られた白人市民が騒ぎを止めさせようとした。罪もない黒人が路上で襲撃され、場合によっては白人のギャングが近隣の黒人宅へ押し入り、家屋を焼き払うなどといった事件も起きた。警察は黒人に対するリンチの仲裁などの対応にも追われた。全体として、25以上の州と50以上の都市で暴動が発生した。少なくとも23人の黒人と2人の白人がこれらの暴動によって死亡し、負傷者は数百人にも及んだ。白人の中には、黒人を殴打している群衆を止めようとして負傷した者もいた[1]

ある州ではジョンソンが白人ボクサーに勝利する場面の撮影を禁止するという措置を取った。アフリカ系アメリカ人の新聞は、黒人が優れているというイメージが出回ることを白人たちは恐れていると述べ、一方で黒人が勝つ場面の撮影を禁止しておきながら他方では黒人に対するリンチを無批判のまま放置している白人の報道を偽善的なものだと主張した[1]。Washington Bee紙は「白人はもはやその地位を脅かすものなく第一級の存在でいられるのが当然とは思うことができなくなっている。こうした事実を見てもわれわれはそのことを窺い知ることができる」と書いた。

1915年4月5日、ジョンソンはジェス・ウィラードにチャンピオンの座を奪われた。ウィラードは元カウボーイで、30歳近くなってからボクシングを始めたばかりであった。キューバハバナにあるヴェダド競技場に25,000人の観客を動員し、全45ラウンドの試合の第26ラウンドでジョンソンはKOされた。この試合はロデリック・マクマホンとそのパートナーによって共同プロモートされたものである。ジョンソンは大男のウィラードをノックアウトすることができず、ウィラードはカウンターパンチャーとしてジョンソンに先手を打たせていた。ジョンソンは20ラウンドを経たころから疲れを見せ始め、26ラウンドにノックアウトされる前からウィラードにボディーを痛打され、苦しんでいる様子が目に見えていた。ジョンソンが自分はわざと負けたのだという噂を広めたといわれているが[要出典]、ウィラードは正々堂々と勝利を収めたと一般に認められている。ウィラード曰く、「ジョンソンが本当に試合を投げるつもりだったのなら、もっと早くしてほしかったね。何しろあそこは地獄よりも熱かったからな」。

[編集] 個人生活

ジャック・ジョンソン。
ジャック・ジョンソン。

ジョンソンはセレブ・スポーツ人の先例の1人であり、プレスの前には定期的に顔を出し、のちにはラジオや映画にも出演するようになった。彼は特許医薬品なども含めた様々な製品の保証人になることで莫大な収入を得ており、自動車レースや特注の衣類といった高級な趣味や、妻たちのための宝石や毛皮の購入などに資産を注ぎ込んだ[要出典]。かつてスピード違反の切符を切られて50ドルの罰金(当時としては高額である)を科せられたときには、警官に100ドル紙幣を渡して「帰りも同じスピードで行くから釣りは取っとけ」と言い放った[1]。ジョンソンはまたオペラ(『イル・トロヴァトーレ』がお気に入りであった)や歴史にも関心を寄せており、特にナポレオンを崇拝して彼は自分と同じような境遇に生まれたのだと考えていた。

ジョンソンはアメリカ社会におけるアフリカ系アメリカ人の社会的・経済的「地位」なる慣習に一切価値を認めていなかった。黒人の男性と白人の女性が肉体関係をもつことは強いタブーであったが、ジョンソンはこれを破り、リングの内外で人々を(白人と黒人とを問わず)罵った。ジョンソンはためらうことなく白人女性を愛し、やはりリングの内でも外でも自分の肉体的な能力を誇示した。チャンピオンのホテルの部屋から出てくる女性たちや順番待ちをしている女性たちの列を見たリポーターに持続力の秘密を訊ねられたときには、「ゼリー詰めのウナギでも食って深く考えないことだな」と答えたとされている[4]

ジョンソンは1910年後半もしくは1911年初頭にエッタ・デュリエイと結婚した。彼女は1911年9月に自殺し、ジョンソンはその直後にルーシー・キャメロンと再婚した。いずれの女性も白人であったが、この事実は当時きわめて大きな論争の的となった。ジョンソンがキャメロンと結婚したあとには、南部の牧師2人がジョンソンをリンチにかけろと勧告したほどである。夫妻は合衆国で刑事告発されるのを避けるために、結婚してすぐにカナダ経由でフランスへ逃れた[1]

[編集] 獄中期

1920年、ジョンソンはハーレム地区にナイトクラブを建てた。3年後に彼はこの店を白人ギャングのオウニー・マドゥンに売却し、マドゥンはコットン・クラブと店名を変えた。

メキシコでいくつかの試合を終えた1920年7月20日にジョンソンはアメリカへ帰国したが、マン法違反の嫌疑をかけられたため連邦捜査官に自首した。マン法とは「不道徳な目的のために女性を州境の外まで連れ出すこと」を禁じたものだが、ジョンソンが白人のガールフレンド、ベル・シュライバーにピッツバーグ-シカゴ間の鉄道乗車券を送ったことがこの法に抵触したのである。この起訴は法の意図的な不正使用であると考えられている。というのも、ジョンソンはガールフレンドを招いただけであるのに対し、マン法は複数の州をまたいだ売春婦の取引網を規制することを目的としたものだからである。ジョンソンは1年の刑期を科せられてレブンワース連邦刑務所へ収監され、1921年7月9日に出獄した[1]。ジョンソンの死後には大統領による恩赦を与えるべきだという提案も繰り返しなされていた。

入獄中にジョンソンは、緩めた留め具を締め直すための道具の必要性に思い至り、そのためにレンチを改良した。彼はこの発明に対する特許を申請し、1922年4月18日に合衆国特許1,413,121号を取得した。

キャメロンは彼の不貞を理由として1924年に離婚した。ジョンソンはその後1925年に古くからの友人であったアイリーン・ピノーと再婚した。彼女はジョンソンより長生きした。ジョンソンには子供が生まれなかった。

[編集] 後半生

ジョンソンは試合を続けたが、年による衰えは隠すことができなくなっていった。1928年に2度の敗北を喫してからは、エキシビジョン・マッチにしか出場しなくなった。

ジョンソンは1946年にノースカロライナ州ローリー近くで自動車事故によって命を落とした。享年68。おりしもジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグの「人種の壁」を打ち破る1年前のことであった。彼はシカゴのグレースランド墓地のエッタ・デュリエイの隣に埋葬された。ジョンソンの墓石には銘が刻まれていないが、「ジョンソン」とだけ書かれた石が、彼と2人の妻の埋葬された区画の上に立てられている。

[編集] 後代への影響

ジョンソンは1954年にボクシング栄誉の殿堂入りし、国際ボクシング殿堂世界ボクシング殿堂の両方にリストされた。また2005年には、国立フィルム保存委員会 (National Film Preservation Board) が1910年のジョンソン - ジェフリーズ戦のフィルムを「歴史的に重要なもの」としてアメリカ国立フィルム登録簿に登録した。

ジョンソンの話を元として戯曲が書かれ、それを原作とした映画『ボクサー』 ("The Great White Hope") も1970年に制作された。ジェームズ・アール・ジョーンズがジョンソン(映画の中ではジャック・ジェファーソンの名で登場する)に扮し、彼が思いを寄せる女性の役はジェーン・アレクサンダーが演じた。2005年には、映画作家のケン・バーンズがジョンソンの生涯を題材とした2部からなるドキュメンタリー "Unforgivable Blackness: The Rise and Fall of Jack Johnson" を制作した。この映画はジェフリー・C・ワードが2004年に発表した同題のノンフィクションを原作としたものである。

ファイターとしてのジョンソンの技巧と、それによって彼にもたらされた金は、彼を白人支配階級にとって無視できない存在にした。アフリカ系アメリカ人が市民権というものをほとんど享受することができず、超法規的な社会的強制力の手段としてのリンチが合衆国の多くの地域で認められていたこの時代において、彼の成功や挑発的な振る舞いは、人種差別主義的な当時の社会状況にとって深刻な脅威と受け取られた。ボクシング界がジョンソンの功績に反発した時期もしばらく続いた。後年、ジョー・ルイスは彼が「白人のように振る舞う」ことができると証明するまでヘビー級タイトルに挑戦することを許されず、打ち倒した対戦者を見て満足げな表情を見せたり、白人女性と一緒に写真に納まったりしないよう警告を受けた[1]。しかしジョンソンが多くの点においてその先例となったといえるのは、おそらくあらゆる時代を通じて最も有名なボクサー、モハメド・アリであろう。実際にアリは自分がいかにジョンソンから大きな影響を受けたかについてしばしば語っている。アリはベトナム戦争に反対したため、同じように白人社会から爪弾きにされたことで、ジョンソンと同じ気持ちを味わうことになった。またアリは自伝において、往年の最も偉大なボクサーはジョンソンとジョー・ルイスであるという点で、自分とジョー・フレージャーの見解は一致しているとも述べている。

[編集] ポピュラー・カルチャー

南部アメリカのパンク・ロック・バンド This Bike Is a Pipe Bomb には、ジャック・ジョンソンについての歌がある。この曲は彼らのCD "Three Way Tie For A Fifth" および Carrie Nations とのスプリット7インチに収録された。多くのヒップホップ・アーティストもまたジョンソンの功績を表現しているが、特に有名なものとしてはモス・デフのアルバム "The New Danger" があり、そこに収められた楽曲 "Zimzallabim""Blue Black Jack" などは彼らにとってのボクシング・ヒーローに捧げられている。マイルス・デイヴィスウィントン・マルサリスはいずれもジャック・ジョンソンについてのドキュメンタリーのサウンドトラックを制作している。映画『俺たちニュースキャスター』 ("Anchorman: The Legend of Ron Burgundy") には、主人公ロン・バーガンディによるジャック・ジョンソンへの言及がしばしば登場する。マイルス・デイヴィスの1970年のアルバム『ジャック・ジョンソン』 ("A Tribute to Jack Johnson") はジョンソンの影響下に作られたものである。レコードの終わりには、俳優ブロック・ピーターズ扮するジョンソンのセリフも入る。

フォーク歌手でありブルース・ミュージシャンのレッドベリータイタニック号についての歌の中でジョンソンに言及している。タイタニック号に乗船しようとしていたが、船長から「石炭を載せるつもりはねえんだよ」と言われ乗船拒否されたジョンソンは、この船の事故と沈没を聞いたときにイーグル・ロック(当時流行していたダンス)を踊りだしたというエピソードを歌詞にしているのである。

カントリー・ミュージシャンのトム・ラッセルは「ジャック・ジョンソン」と題した曲を書き、バレンス・ウィットフィールドをリードボーカルに擁して1993年に録音し、アルバム "Hillbilly Voodoo" で発表した。この曲はジョンソンに対する賛歌であると同時に、彼が直面した人種主義に対する痛烈な告発である。

2006年、ウォルマートのウェブサイトでDVD購入者が『チャーリーとチョコレート工場』や『猿の惑星』のページから「類似の商品」を検索すると、ジョンソンの映画 "Unforgivable Blackness: The Rise and Fall of Jack Johnson" のページに誘導されるという珍現象が生じ、議論が引き起こされた[5]

NHLオタワ・セネターズのレイ・エメリー (Ray Emery) はボクシングへの愛好心の証として、ジャック・ジョンソンの写真を貼り付けたマスクを身に着けて試合に出場したことがある(マイク・タイソンの写真を付けていたこともある)。

テキサス州ガルベストンの41番街は彼にちなんで「ジャック・ジョンソン大通り」と名づけられた。

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Ken Burns, Unforgivable Blackness
  2. ^ Remnick, David "Struggle for his soul", The Observer, 2003-11-02. Retrieved on 2003年11月2日
  3. ^ Zirin, Dave "The Hidden History of Muhammad Ali", Edge of Sports
  4. ^ Stump, Al. 'The rowdy reign of the Black avenger'. True: The Men's Magazine January 1963.
  5. ^ Horowitz, Adam, et al. "101 Dumbest Moments in Business", CNN.com, 2007-01-23. Retrieved on 2007年1月23日

Washington Bee, New York Times, Chicago Tribune, 各紙とも1910年7月5日付。

[編集] 関連記事

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
ウィキクォート
ウィキクォートジャック・ジョンソン (ボクサー)に関する引用句集があります。
先代:
トミー・バーンズ
ボクシング世界ヘビー級王者
1908年 - 1915年
次代:
ジェス・ウィラード


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