カレル・アンチェル
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カレル・アンチェル (Karel Ančerl, 1908年4月11日 - 1973年7月3日) はチェコの指揮者。南ボヘミア地方のトゥカピ出身。
1925年から4年間にわたってプラハ音楽院でアロイス・ハーバに作曲を、ターリヒに指揮を学んだ。1930年のミュンヘン現代音楽祭で初演された師ハーバの歌劇「母」の初演を指揮したヘルマン・シェルヘンのアシスタントを務めた事がきっかけとなり、彼の指揮クラスで指導を受ける。またターリヒの指導も受け続け、本格的な指揮活動の一歩を踏み出す。
1933年にはプラハ交響楽団の音楽監督に就任するも、1939年にチェコがナチス・ドイツの支配下に入ると、ユダヤ系だったアンチェルはプラハ響を追われ、アンチェル自身を含めた家族全員がアウシュビッツに移送、収容所で家族は虐殺され、アンチェルのみが生還した。
チェコがナチの支配から解放された後、アンチェルは楽壇へ復帰を果たし、1947年から3年間チェコ放送交響楽団の指揮者を務め、1950年にはクーベリックの後任としてチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任する。1948年の共産党政権成立に端を発したチェコのソ連衛星国化に反発したクーベリックが辞任・亡命して以来、低迷状態に陥っていたチェコ・フィルを立て直し、チェコ・フィルはターリヒ時代の栄光を取り戻す。 1959年、チェコ・フィルを帯同して来日公演を行ったが、偶然同時に来日していたカラヤンとウィーン・フィルの演奏に勝るとも劣らぬ演奏を披露、日本の好楽家の間でも名声を確立した。また日本だけではなく世界中のツアーを敢行し、多数の熱狂的なファンを生み出すなど大成功を収めた。
ところが1968年、アンチェルがアメリカ演奏旅行中にいわゆる「プラハの春」事件が起こり、チェコはソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍の軍事介入を受ける。アンチェルは旅行先で帰国を断念、亡命の道を選び、同時にチェコ・フィルの常任指揮者も辞任する。
亡命後の1969年に小澤征爾の後任としてカナダのトロント交響楽団の常任指揮者に就任するも、そのわずか4年後、亡命先のトロントで悲劇的な生涯の幕を閉じた。
大の教育好き、トレーニング魔としても知られる。チェコ・フィルを立て直すために練習を徹底的に行い、時間終了後も指揮台に残ったり楽屋で練習に付き合ったり、奏者の技術向上へ多大な貢献をもたらした(似たタイプにエドゥアルト・ファン・ベイヌムがいる)。弟子には、ズデニェク・コシュラー、マルティン・トゥルノフスキー、イルジー・コウト等がいる。
演奏は常に引き締まって厳しさを湛えたものだが、それが冷たくならず香りや情感に満ちているところが唸らされる。古典から現代曲まで幅広く網羅したが、ストラヴィンスキーやマルティヌーなど近現代曲では無敵の強さを誇った。
先代: ラファエル・クーベリック |
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者 1950–1968 |
次代: ヴァーツラフ・ノイマン |
先代: 小澤征爾 |
トロント交響楽団音楽監督 1969–1973 |
次代: アンドルー・デイヴィス |