カシアス内藤
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カシアス内藤(カシアスないとう、1949年5月10日 - )は、日本の元プロボクサー。現在E&J カシアス・ボクシングジム会長。兵庫県神戸市生まれ、神奈川県横浜市育ち。本名・内藤 純一。アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフであり、米名はロバート・ウィリアムス・ジュニア。
元・東洋ミドル級チャンピオン、元・世界ミドル級1位。現役当時は「和製クレイ」、「東洋のクレイ」などと呼ばれた。
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[編集] 来歴
黒人のアメリカ兵と日本人女性との子として神戸で生まれ、横浜で育った。神奈川の武相高校でボクシング部に入部し、ミドル級の高校チャンピオンとなる。
1968年11月13日に船橋ジムからプロデビュー。リングネームの「カシアス内藤」は、モハメド・アリの本名「カシアス・クレイ」にあやかって船橋ジムの石川昭二会長(後楽園と小岩を縄張りにした暴力団住吉連合大幹部で石川睦の会長)が命名した。
内藤自身はこのリングネームに気が重かったらしいが、デビュー翌年から名トレーナーとして知られるエディ・タウンゼントの指導を受けると、左ボクサー・ファイタータイプの強打者として連勝街道を邁進し、無敗のまま1970年2月に日本ミドル級チャンピオン、翌1971年1月には東洋ミドル級チャンピオンとなり、周囲は重量級の世界チャンピオンの誕生を期待するようになる。
しかし、恵まれた才能を持ちながら、元来気が優しく精神的に脆い面が災いして、後に輪島功一を倒して世界チャンピオンとなる韓国の柳済斗に敵地で敗れ初黒星を喫すると、以降精彩を欠いた試合を続けるようになった。一足先に重量級の世界チャンピオンとなった輪島とは、ノン・タイトル戦ながら1972年2月に試合を行っており、壮絶な打撃戦の末に7回KOで敗れている。
戦績が下降線を辿るようになってくると、勢いのある選手の「かませ犬」のような存在となり、1974年にやはり後の世界王者である工藤政志に判定負けし、一旦表舞台から姿を消した。
4年後の1978年10月に突然復帰して連勝するが、1979年8月に韓国のソウルに乗り込んで朴 鍾八との東洋ミドル級王座決定戦に挑むものの2回KO負けを喫し、その年の末に現役を引退した。
引退後咽頭がんを患っている事を公表し、現役中に知り合ったノンフィクション作家の沢木耕太郎らの協力を得て、2005年2月に地元横浜で念願だったボクシングジムを開設した。
「将来、自分のジムを作って後進の育成をする」約束をエディとしたと語り、「声が出せないと選手を指導できない」との理由で手術を拒み、日常生活では支障ない位まで克服しつつある。
ちなみに、ジムの名前のE&Jとは、恩師と本名のイニシャルに由来する。
[編集] 沢木耕太郎
沢木耕太郎はカシアス内藤と練習等の日常生活から実際の試合まで行動を共にし、1976年に『クレイになれなかった男』(『敗れざる者たち』に収録)と 1981年に『一瞬の夏』を書き上げ発表した。
『クレイになれなかった男』では、恵まれた才能を持ちながら、あと一歩の処でチャンスを掴み切れなかった内藤を自らの姿と重ね合わせ、カシアス・クレイや『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈と対比させることで「燃え尽きたい」と願っても「燃え尽きることができない」悲哀を描いた。
続編とも言える『一瞬の夏』では、復帰して再起を図る内藤の姿を克明に描いて各方面から絶賛され、第一回新田次郎文学賞を受賞した。
互いに二十代のころから親交があり、エディ・タウンゼントとも親しかった沢木は、エディの遺志を継ぎたいと願う内藤がジムを開設するにあたって、「大勢の人に広くカンパを募る」という愛情を持ちながらも、さり気ない形のサポートをした。
[編集] エピソード
- 元・日本ミドル級チャンピオンで日本映画の『どついたるねん』(監督:阪本順治、主演:赤井英和)で俳優に転向した大和武士は、少年院で『一瞬の夏』を読んで感激しプロボクサーを志した(具体的には、再起を目指した内藤が、その動機を「(ヤクザの)用心棒なら、いつでもできるから。でもボクシングは今しかできない」と沢木に対して語った部分が、当時の大和にとり、我が身を省みて考える部分が大きかった、ということらしい)。
- アリスの『チャンピオン』はカシアス内藤のことを歌ったものである事を、「24時間テレビ28」の「生きるチカラ」というコーナーで内藤と同じステージに立った谷村新司が明かした。
- 2007年10月11日のWBC世界フライ級タイトルマッチ内藤大助対亀田大毅の翌日、同じ内藤姓ゆえジムに10本以上の電話が殺到した。内容は勘違いや「同じ内藤さんとしてどう思いますか?」などであった。なお、内藤大助とは血縁関係などない。
[編集] 戦績
- 39戦27勝(13KO)10敗2分