ウラル核惨事
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ウラル核惨事(ウラルかくさんじ)は、1957年9月29日、ソ連ウラル地方で発生した原子力事故(爆発事故)。また、後年にかけて放射性廃棄物に起因して発生する事故等も包括することも多い。
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[編集] 概要
オジョスク市にあるマヤーク(灯台の意味)は1948年から建設された、兵器(原子爆弾)用プルトニウムを生産するための原子炉5基および再処理施設を持つプラントである。プラントの周囲には、技術者が居住する都市が造られ、チェリヤビンスク65という暗号名を持つ秘密都市として形成されるようになった。事故は、この施設を中心に発生した。
[編集] キシュテム事故
1950年代当初のソ連では、一般には放射能の危険性が認知されていない、もしくは影響を低く考えられていたため、放射性廃棄物の扱いはぞんざいであり、液体の廃棄物は付近のテチャ川(オビ川の支流)や湖(後にイレンコの熱い湖、カラチャイ湖と呼ばれる)に流し込み処理されていた。やがて付近の住民に健康被害が生じるようになると、液体の高レベルの放射性廃棄物に関しては濃縮してタンクに貯蔵する方法に改められた。
放射性廃棄物のタンクは、絶えず生じる核分裂反応により高温となるため、冷却装置を稼働させ安全性を保つ必要があるが、1957年9月29日、肝心の冷却装置が故障。タンク内の温度は急上昇して爆発が生じ、大量の放射性物質が大気中に放出される事態となった。爆発規模はTNT火薬70t相当で、約1,000m上空まで舞い上がった放射性廃棄物は南西の風に乗り、北東方向に幅約9km、長さ105kmの帯状の地域を汚染、約1万人が避難した。避難した人々は1週間に0.025-0.5シーベルト、合計で平均0.52シーベルト、最高0.72シーベルトを被曝した。特に事故現場に近かった1,054人は骨髄に0.57シーベルトを被曝した。
[編集] 放射性廃棄物の飛散
放射性廃棄物貯蔵所でもあった湖(イレンコの熱い湖)は、放射性ストロンチウム90などで汚染されていたが、たまたま1967年春に干魃が発生し、湖底が干上がって乾燥。放射性物質を含む砂や泥が舞い上がり周囲に飛散し、地域住民に放射線による被害を派生させることとなった。
また1950年代に河川に投棄されていた放射性廃棄物は、対策が講じられず河床に沈殿されたままとなっており、年々下流域の住民の被害を深刻なものとしている。
[編集] 事故の表面化
事故は旧ソ連で起こったために極秘とされたが、1958年には「何かがあったらしい」程度の情報がアメリカ国内にも伝わることとなった。概要が明らかになったのは、1976年11月にソ連から亡命した科学者ジョレス・A・メドベージェフが英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に掲載した論文による(彼はその後『ウラルの核事故』(日本語訳有り)を出版する)。この告発をソ連は真っ向から否定したこと、また、原子力を推進する立場の人々からは、このような事故はあり得ず、これは単なる作り話であるとされていた。これは、当初流布されたウワサでは、核爆発が起きたとされていたためである。
このため、1989年9月20日、グラスノスチ(情報公開)の一環として、外国人(日本人5人)記者団に資料が公開されるまで真相は明らかにされてこなかった。また地域住民に、放射能汚染が正式に知らされたのはロシア政府発足後の1992年前後であり、対策は後手に回り被害を拡大させる一因となった。
[編集] 現在のマヤーク
1980年代までに兵器用核物質の生産は終了、2000年代には民生用のコバルト60の生産や使用済み核燃料の再処理が続けられている。再処理施設は国内唯一の施設であり、後継処理場の建設が頓挫していることから、今後も稼働が続くことは確実視されている。
[編集] 参考文献
- 『ウラルの核惨事』 ジョレス・A・メドベージェフ著 梅林宏道訳 技術と人間 1982年7月 ISBN 4764500248