イスラエル・インテリジェンス・コミュニティー
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イスラエル情報機関共同体(いすらえるじょうほうきかんきょうどうたい)
(ヘブライ語: קהילת המודיעין הישראלית/ケヒラット・ハ-モディイン・ハ-イスラエリィート)
イスラエル情報機関共同体(インテリジェンス・コミュニティー)とは、イスラエルの防諜及び対外諜報機関・警察・軍事情報機関の交流会。情報交換や活動調整する委員会としては様々なものがある。
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[編集] メンバー
現在のイスラエルにはインテリジェンス・コミュニティーと言う5つの情報組織から成る交流会がある。具体的にはさまざまな委員会がある(例えばイスラエル国会の外交防衛委員会付属の小委員会)が、基本的に以下の5機関の長で構成され、諜報特務局「ハ-モサッド」長官が議長を務める。
- イスラエル総理府
- イスラエル国防省
- イスラエル国防軍情報部「アマン」及び傘下情報組織
- イスラエル空軍情報部「ラムダン」
- イスラエル国防軍情報部「アマン」及び傘下情報組織
- イスラエル国内治安省
- イスラエル外務省
- 政治調査局「ママッド」
- イスラエル警察捜査情報部
[編集] 隠語「政治的」
シオニストの間では諜報活動を表す隠語として「政治的」という言葉が使われる。例えば、国際連盟英国委任統治領パレスチナのユダヤ人社会ハ-イシューヴの「政府」であるユダヤ機関外交及び情報部は「政治局」だし、ハ-イシューヴの軍事組織ハガナーの情報組織「シャイ」の教育機関は「政治学学校」と呼ばれた。イスラエル建国後では、対外情報機関ハ-モサッドの前身である外務省の情報局は「政治局」であったし、第四次中東戦争後に強化された外務省の情報評価分析担当部局は「政治調査局(ママッド)」である。
[編集] 歴史
[編集] ハガナー情報局
国連英国委任統治領パレスチナのユダヤ人社会「ハ-イシューヴ」では「ハガナー」が軍事部門を占め、諜報部門ではユダヤ機関政治局とともにハガナー情報局「シェルート・ハ-イェディオット(略称シャイ)」が活動。
[編集] パレスチナ内戦
イスラエルにおける歴史学の理解によると、「解放戦争」と呼ばれる独立戦争は国連パレスチナ問題特別委員会(UNSCOP - United Nations Special Committee of Palestine)による英国委任統治領パレスチナのユダヤ人とアラブ人両方の分離独立が決定した日である1947年11月29日に始まる。この日からイスラエル国家独立宣言までの前半部分が「パレスチナ内戦」である。パレスチナのシオニストとアラブ人住民の武力闘争であったが、まだイギリス軍は駐留していた。
[編集] アラブ住民大量追放
第二次世界大戦中に連合軍に参加した兵員を加え圧倒的に有利なシオニスト側は当初は押され気味であったが、1948年3月10日から「ダレット計画(Plan Dalet)」というアラブ系住民大量追放計画を実行に移す。この計画立案に関わっていた11人のメンバーは主にハガナーのメンバーであり、ハガナー情報局「シャイ」のアラブ課を立ち上げたエズラ・デニンも参加した。その一方でベン=グリオンは反対を恐れたのか、マパイ党の政治家達は含まれていない。
[編集] イスラエル国家独立
1948年5月14日にシオニスト達はユダヤ人国家独立宣言。同月26日にイスラエル国防軍が創設。
[編集] 第一次中東戦争
イスラエル国家独立と同時に解放戦争の後半部分である「国際戦争」、いわゆる第一次中東戦争勃発。最新の歴史学では、当時アラブ連合国の中でイギリス軍による訓練が最も行き届いていたヨルダンの国王アブドゥッラー1世とユダヤ機関政治局の間で戦争を回避する密約があった。また、侵入してきたイラクやシリア軍とも大した戦闘は起こっていない。唯一活発に動いたのはエジプト軍のみであった。
[編集] シャイ解体
イスラエル国防軍創設直後の6月30月にシャイは解体して、3つの独立情報機関に再編された。高級紙「ハ-アレッツ」紙の諜報問題専門家ヨッシー・メルマンYossi Melman氏によると、イスラエルのインテリジェンス・コミュニティーが成立したのはこの日である。
[編集] 新しい組織
- イスラエル国防軍作戦部情報課「ママン」(ממ"ן)
- マフラカット・ハ-モディイン=情報部局の意のヘブライ語頭文字מ(メム)מ(メム)נ(ヌン)の略。現在のイスラエル国防軍情報部「アマン」。
- イスラエル国防省保安局「シン・ベイト」(ש"ב)
- シェルート・ハ-ビタホン=保安局の意のヘブライ語頭文字ש(シン)ב(ベイト)。創設当初しばらくは国防省傘下であった。1949年9月現在の名称イスラエル総理府総保安局「シャバック」となる。1950年以降は総理府管轄。
- イスラエル外務省政治局
- 外務省政治局(ハ-マフラカ・ハ-メディニィート)最高責任者がルーヴェン・シロアッフ外務大臣特務問題顧問。局長にはボリス・グリエルが就任。シモン・ペレスの弟ギギー・ペレスも所属していた。今日のイスラエル総理府諜報特務局「ハ-モサッド(・レ-モディイン・ウ-レ-タフキディム・メユハディム)」の基礎となる。
[編集] 第三次中東戦争
1967年に起こった第三次中東戦争勝利を受けて、イスラエル指導部は軍情報部「アマン」[1][2]に全面的な信頼を置いた。
[編集] 第四次中東戦争
しかし、第三次中東戦争での「成功体験」がその後の第四次中東戦争では裏目に出る事になる。結果として情報分析能力の問題であるが、直接的には軍情報部「アマン」が他者に自身の分析に疑いを挟ませなかった「情報分析の独占・統制」の問題であった。というのは、現在でも基本的には同じ事情が続いているのだが、軍情報部「アマン」は軍組織の一部で在りながら経済分析など幅広く手を広げ過ぎており、特に当時は純軍事的判断が鈍ってしまった為に、エジプト軍などの意図を見誤った。一方で当時本格的な分析部門の欠けていたにも拘らず諜報特務局「ハ-モサッド」は適切な状況分析をしていたが指導部はそれを軽視。さらに、同時期シモン・ペレスはエジプトに軍事顧問団を置くソビエト連邦関係者が家族をエジプトから脱出させているのを見て、「開戦」と判断した。だが、イスラエル・ガリリーはその主張を退けた。
[編集] アグラナット委員会提言
第四次中東戦争後に情報機関全体の見直しの為にアグラナット委員会[3][4]が開かれた。同委員会の提案事項として、コミュニティー各機関の情報分析力のの強化がある。ハ-モサッドにはそれまで本格的な分析部門が存在せずに小規模なものに甘んじていたが、これを機会に新設された。軍情報部「アマン」では各レベルでの分析部門が増設された。外務省には情報調査分析を専門とする部局である政治調査研究所が設けられる事になる。
[編集] 外務省政治調査局
イスラエル外務省では諜報特務局「ハ-モサッド」の前身の「政治局」が1951年に同組織に吸収統合されたが、それとは別に1950年に政治経済情報を扱う「調査部」を創設し細々とやってきた。だが、アグラナット委員会提言にもあるように独自の情報分析の必要性から調査分析部局の政治調査局「ママッド」を新設。これにより、イスラエルのインテリジェンス・コミュニティーの特徴である複数評価主義(Pluralism)が形作られた。
[編集] 各構成機関の規模
諜報特務局「ハ-モサッド」要員数1500人から2000人位と推定されている。総保安局「シャバック」推定要員数は諜報エリートの諜報特務局「ハ-モサッド」のそれを上回る。1967年のヨルダン川西岸等占領以前の時点で、「非常に少さい規模」とされていた総保安局「シャバック」は数百人の規模であった。後に要人防衛、占領地区のアラブ人の監視など様々な任務が加えられたので3~4千人位と推測される。「両局の母体」のイスラエル軍情報部「アマン」は推定7~8千人である。これら膨大な人員は徴兵制が有るからこそ、イスラエル程度の規模の経済力で維持出来る。義務兵役を軍情報部「アマン」で終えた優秀な人材は、諜報特務局「ハ-モサッド」や総保安局「シャバック」の要員候補となる。軍情報部「アマン」は盗聴など様々な電子情報や基礎的な公開情報を集めて、諜報特務局「ハ-モサッド」や総保安局「シャバック」に提供する。しかし近年、諜報特務局「ハ-モサッド」は軍情報部「アマン」と対立する事が多く、独自の電子情報収集システムを手に入れたがっているが、経済状態の厳しいイスラエルでは無駄な事に組む予算は無い。