アーヴィング・バーリン
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アーヴィング・バーリン(Irving Berlin、1888年5月11日–1989年9月22日) は、ベラルーシ生まれのアメリカの作曲家、作詞家。
正式な音楽教育を受けたことはなかったが、半世紀にわたる音楽活動で膨大な量の優れたポピュラー・ソングを作詞・作曲し、ジョージ・ガーシュウィンをして「アメリカのシューベルト」と言わしめた人物である。ことに著名な代表曲に「ホワイト・クリスマス」「ゴッド・ブレス・アメリカ」などがある。
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[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
帝政ロシア(現在はベラルーシ領となっている)の、父親がラビを務める敬虔なユダヤ教徒の一家に生まれた。なお、生まれたときの名前はIsrael Isidore Balineであった。5歳の時に家族とともにアメリカのニューヨークに移住するものの、移住した3年後に父親が死去したため、新聞売りや靴磨きなど様々な職を転々とする。
[編集] デビュー
後にニューヨーク、マンハッタンのチャイナタウンのカフェのウェイター兼専属歌手になり、カフェで歌うための曲を自作し好評を博すようになる。その後ボードヴィルの舞台に自ら上がってもいる。
1911年作曲の『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』のヒットで名声を確立、これをきっかけに本格的にショーの世界に入り込み、ミュージカル楽曲の作詞、作曲を行う。
[編集] 「God bless America」と「ホワイト・クリスマス」
1915年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、慰問ミュージカルショーのために数々の作品を手がけるようになり、この頃に後に「第二の国歌」と呼ばれるようになった『ゴッド・ブレス・アメリカ』を作詞、作曲する。なお、その後アメリカが参戦した第二次世界大戦にも慰問を行い好評を得るが、「ゴッド・ブレス・アメリカ」はこの第二次大戦以来再認識され、広く知られるようになった。
1927年には世界初のトーキー作品である映画『ジャズ・シンガー』の音楽を手がけ、アル・ジョルスンが歌う『ブルースカイ』が大ヒットとなって以降多くの映画音楽を手がけるようになる。
1935年には代表作の1つである『トップハット』が大ヒットし、1942年の『スイング・ホテル』では、劇中歌『ホワイト・クリスマス』の作詞・作曲でアカデミー歌曲賞を受賞するなどして、当時隆盛を誇っていたハリウッドを代表する映画音楽家ともなった。『ホワイト・クリスマス』はクリスマス・ソングの極めつけとして多くの歌手によって21世紀に至るまでカバーされており、史上もっともヒットした歌曲の一つとして知られている。
[編集] アメリカを代表する音楽家
第二次世界大戦後にも『ショーほど素敵な商売はない』など、現在も歌い継がれる名曲を多数残したものの、1950年代以降のロックンロールの人気に違和感を感じたため、1962年に作詞、作曲活動から引退した。
引退後もアメリカを代表する音楽家の一人として高い評価を受け、1968年にはグラミー賞の生涯功労賞を受賞した。100歳を超える高齢で死去したが、死後にはその栄誉を称えて記念切手が発行された。生涯に作詞した楽曲の数は3,000以上に上る他、17の映画音楽と21のブロードウェイミュージカルを手がけている。
[編集] エピソード
なおバーリンは、正式な音楽教育はおろか一般的な学歴にすら乏しい生い立ちであったため、楽譜の読み書きができなかった。名声を得てからも楽譜を書くことが出来ず、着想したメロディを上手くないピアノで奏で、専属の採譜者に記録させていた。教養の乏しさから、書く歌詞の作風もインテリ趣味の技巧とは遠く、概して単純率直で素朴であったが、それゆえに誰にもわかりやすく親しみやすい内容のものが多かったため、大衆からは好まれた。
バーリンの性格は強度の「お天気屋」で、自らの作品に強い誇りを持つ一方、周囲から称賛を受けている状態でないとすぐに自信喪失してしまうところがあった。例えば1930年に発表され、後世まで名曲として歌い継がれているバラード『愛は海より深く』は、その数年前に完成していたにも関わらず、作曲当時スランプ状態だったために発表する自信がなく、周囲の勧めで公表するまで時間がかかっている。
[編集] 代表曲
- ショーほど素敵な商売はない
- ホワイト・クリスマス
- ゴッド・ブレス・アメリカ
- ブルースカイ
- オールウェイズ