アール・ウィーバー
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アール・ウィーバー(Earl Sidney Weaver, 1930年8月14日 - )はアメリカ・メジャーリーグの元監督。 1968年から1982年、及び1985年・1986年の合計17シーズンにわたってボルチモア・オリオールズの監督を務め、地区優勝6回。 うち4回リーグ優勝を果たしてワールドシリーズに出場し、1970年には優勝している。 1996年にアメリカ野球殿堂入り。 アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス出身。 ニックネームは、「Earl of Baltimore」。
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[編集] 人物・来歴
現役選手としてはメジャーに昇格することなかったが、1968年途中に37歳でボルチモア・オリオールズの監督に就任すると、指揮能力を発揮した。 就任2年目の1969年、この年より東西2地区制を採用したが、ア・リーグ東地区の初代チャンピオンとなり、ア・リーグリーグチャンピオンシップシリーズ(ALCS)でもミネソタ・ツインズに3連勝してワールドシリーズ進出。 この年より3年連続で地区優勝・リーグ優勝を果たした。 有利が予想された1969年のワールドシリーズは、ミラクル・メッツと呼ばれたニューヨーク・メッツに敗れたが、1970年のワールドシリーズではシンシナティ・レッズを破りワールドチャンピオンに。 1971年のワールドシリーズはピッツバーグ・パイレーツに敗れた。 1971年秋に、日米野球で単独チームとして来日し、各地で強さを見せつけた。
その後も1973年・1974年に地区優勝するが、いずれもALCSで、当時ワールドシリーズ3連覇を達成中であったオークランド・アスレチックスに敗れる。 1979年には前年までワールドシリーズ連覇を続けていたニューヨーク・ヤンキースを破って地区優勝。 ALCSでもカリフォルニア・エンゼルスを破るが、ワールドシリーズでは再びパイレーツに敗れた。
1982年限りで一度監督を退任し、解説者となる。 皮肉にも、オリオールズは1983年に後任監督ジョー・オルトベリによってワールドシリーズ優勝を果たすが、その瞬間も解説者として放送ブースに居た。 1985年途中にオルトベリに代わって再度監督に就任。しかし、翌1986年には17シーズン目で初めて勝率5割を切って地区最下位に終わり、このシーズンを最後に監督を退任。
引退後、1996年にベテランズ委員会の審査によってアメリカ野球殿堂入りを果たした。
監督としては、戦術的には「ピッティング、守備、3ラン本塁打」を重視し、盗塁、ヒットエンドラン、送りバントをあまり好まなかった。 また、選手の統計をチェックし、相手投手との相性(直感ではなく、成績に基づくもの)を重視してしばしばメンバー・打順を変えた。 1972年のスプリング・トレーニング[1]では初めてスピードガンを本格的に使用して、投手の球速を計測した。
[編集] 年度別成績(監督)
年度 | チーム | 地区 | 年齢 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位/チーム数 | 備考 |
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1968年 | BAL | AL | 37 | 82 | 48 | 34 | .585 | 2 / 10 | 順位は最終順位 |
1969年 | BAL | AL EAST | 38 | 162 | 109 | 53 | .673 | 1 / 6 | リーグ優勝 |
1970年 | BAL | AL EAST | 39 | 162 | 108 | 54 | .667 | 1 / 6 | ワールドチャンピオン |
1971年 | BAL | AL EAST | 40 | 162 | 101 | 57 | .639 | 1 / 6 | リーグ優勝 |
1972年 | BAL | AL EAST | 41 | 154 | 80 | 74 | .519 | 3 / 6 | |
1973年 | BAL | AL EAST | 42 | 162 | 97 | 65 | .599 | 1 / 6 | 地区優勝 |
1974年 | BAL | AL EAST | 43 | 162 | 91 | 71 | .562 | 1 / 6 | 地区優勝 |
1975年 | BAL | AL EAST | 44 | 159 | 90 | 69 | .566 | 2 / 6 | |
1976年 | BAL | AL EAST | 45 | 162 | 88 | 74 | .543 | 2 / 6 | |
1977年 | BAL | AL EAST | 46 | 161 | 97 | 64 | .602 | 2 / 7 | |
1978年 | BAL | AL EAST | 47 | 161 | 90 | 71 | .559 | 4 / 7 | |
1979年 | BAL | AL EAST | 48 | 159 | 102 | 57 | .642 | 1 / 7 | リーグ優勝 |
1980年 | BAL | AL EAST | 49 | 162 | 100 | 62 | .617 | 2 / 7 | |
1981年 | BAL | AL EAST | 50 | 105 | 59 | 46 | .562 | ※ | |
1982年 | BAL | AL EAST | 51 | 163 | 94 | 68 | .580 | 2 / 7 | |
1985年 | BAL | AL EAST | 54 | 105 | 53 | 52 | .505 | 4 / 7 | |
1986年 | BAL | AL EAST | 55 | 162 | 73 | 89 | .451 | 7 / 7 | |
通算 | 24年 | 3,658 | 2,040 | 1,613 | .558 |
- 休養や出場停止処分によって指揮を執っていない試合は除く。
- ※1981年はストライキのためシーズンが二分・短縮され、前期2位、後期4位。
[編集] 著書
- Weaver on Strategy
[編集] エピソード
- 判定に抗議する監督として知られ、通算退場回数は97回で、これは現在でもア・リーグ記録である。(メジャー最多はボビー・コックス(現アトランタ・ブレーブス監督)で、2007年8月14日に通算132回のメジャー新記録を「達成」。)
- その反面、ルールには詳しく、ルールの解釈を誤った抗議は一度もなかった。そのため、ア・リーグの審判はウィーバーの抗議には戦々恐々としていた。
- 殿堂入りのエースジム・パーマーとの確執は有名で、たびたび論争を繰り返した。後に「パーマーのおかげでこんな白髪だらけになってしまった」と語っている。
- カル・リプケンを三塁手から遊撃手にコンバートしたのもウィーバーである。
[編集] 脚注
[編集] 出典・外部リンク
- baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
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5 ブルックス・ロビンソン / 6 ポール・ブレア / 7 マーク・ベランジャー / 8 アンディ・エチェバレン / 9 ドン・ビュフォード / 10 エルロッド・ヘンドリックス / 14 メルブ・レッテンマンド / 15 デーブ・ジョンソン / 19 デーブ・マクナリー / 20 フランク・ロビンソン / 22 ジム・パーマー / 24 ピート・リチャート / 25 モー・ドラボウスキー / 26 ブーグ・パウエル / 29 ディック・ホール / 30 チコ・サーモン / 32 マルセリーノ・ロペス / 35 マイク・クェイヤー / 36 トム・フォイブス / 37 テリー・クラウリー / 39 エディ・ワット 監督 4 アール・ウィーバー |
en:Earl Weaver 2007-08-24 22:27:00 UTC より翻訳。 著者:Can't sleep, clown will eat me 、Mghabmw 、Majorclanger 、Masonpatriot 、MrHaroldG2000 ほか