アンドロニコス2世パレオロゴス
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アンドロニコス2世パレオロゴス(ギリシア語:Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος (Andronikos II Palaiologos)、1260年 - 1332年2月13日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の第2代皇帝(在位:1282年 - 1328年)。同王朝初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスの長男。
高い教養を持つ文人皇帝として学芸の振興に尽力し、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化最後の興隆期を現出した。また父親の教会合同政策を改めて正教会と国家の関係を修復し、彼の治世の下でアトス山の修道院活動は一つの盛期を迎える。しかし為政者としての能力は乏しく、父ミカエル8世が再建した東ローマ帝国は彼の治世で早くも衰退に向かい始めた。
西欧側に対しては、父ミカエルの創設した海軍が衰微するのを長年にわたって放置したため、ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国といった、当時の地中海の海洋国家との競争に打ち勝つことができなくなった。
オスマン1世のもとでオスマン帝国がビチュニアのほぼ全域を征服すると、アンドロニコスはこれに対抗するため、カタルーニャの探検家ロジェ・ド・フロール(出自はドイツ人)の助力を仰いだ。彼の指揮のもとにカタルーニャ人と、アルモガバレスとして有名なアラゴン人の混成傭兵が動員され、オスマン軍を破った。しかし今度は、ロジェがアンドロニコスにとっての脅威となったため、1305年に、アンドロニコスの長男ミカエルやその支持者が暗殺した。残されたロジェの傭兵軍団は、トラキアとマケドニアを荒らし回り、アテネ公領とテーバイを征服した。
アンドロニコス2世は孫のアンドロニコスの素行の悪さに立腹し、その帝位継承権を剥奪したが、これに反発したアンドロニコスは1320年に反乱を起こした。内乱は途中で講和をはさみつつ7年続いたが、最終的には孫のアンドロニコスが勝利。アンドロニコス2世は1328年に廃位された。1330年に修道士アントニオス(Αντώνιος)としてに隠棲を余儀なくされ、1332年に没した。傭兵部隊の乱暴狼藉と、帝位をめぐる内乱によって既に弱体化していた東ローマ帝国の衰退は決定的なものになってしまった。
[編集] 家族
1274年に結婚したハンガリー王イシュトヴァーン5世の王女アンナ(1281年没)との間には二男が生まれた。
アンナ没後の1284年にモンフェラート侯グリエルモ7世の娘ヴィオランテ・ディ・モンフェラート(ギリシア語名:エイレーネー)と再婚し、三男一女をもうけた。
このほかに、少なくとも2人の庶子がおり、そのうちエイレーネーはテッサリア専制公ヨハネス2世ドゥーカスと、マリアはジョチ・ウルスのトクタ・ハーンと結婚した。
東ローマ帝国パレオロゴス王朝 | ||
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