アンドレイ・チェルカソフ
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アンドレイ・チェルカソフ |
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基本情報 |
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ラテン文字名 | Andrei Cherkasov |
国籍 | ロシア |
出身地 | 同・ウファ |
生年月日 | 1970年7月4日 |
身長 | 180cm |
体重 | 75kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1988年 |
ツアー通算 | 2勝 |
シングルス | 2勝 |
ダブルス | 0勝 |
生涯通算成績 | 219勝263敗 |
シングルス | 193勝216敗 |
ダブルス | 26勝47敗 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | ベスト8(1990) |
全仏 | ベスト8(1992) |
全英 | 1回戦(1989-94) |
全米 | ベスト8(1990) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 13位 |
ダブルス | 141位 |
Template |
オリンピック | ||
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男子 テニス | ||
銅 | 1992 | シングルス |
アンドレイ・チェルカソフ(Andrei Cherkasov, Андре́й Генна́диевич Черка́сов, 1970年7月4日 - )は、ロシア・ウファ出身の男子プロテニス選手。旧ソ連時代から活躍し、1992年のバルセロナ五輪で男子シングルスの銅メダルを獲得した選手である。シングルス自己最高ランキングは13位。ATPツアーでシングルス2勝を挙げた。彼の名前は、同じ旧ソ連の男子プロテニス選手であるアンドレイ・チェスノコフと混同しやすい。
チェルカソフはジュニア時代、1987年の全米オープンジュニア男子シングルス部門でデビッド・ウィートン(アメリカ)に敗れた準優勝がある。1988年にプロ入りし、その年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのソ連代表選手に選ばれ、同年のソウル五輪の男子シングルスにも出場した。1989年全仏オープンで4大大会初出場。1990年にチェルカソフは著しい躍進を遂げ、全豪オープンと全米オープンでベスト8に進出した。初出場の全豪オープンでは、1回戦で日本の松岡修造を破った試合から始まり、準々決勝で第1シードのイワン・レンドルに 3-6, 2-6, 3-6 で敗れた。全米オープンでは、チェルカソフは3回戦で1989年全仏オープン優勝者のマイケル・チャンを破り、準々決勝でアンドレ・アガシに 2-6, 2-6, 3-6 のストレートで敗れている。1990年11月、ソ連のテニストーナメントとして「クレムリン・カップ」が創設された。チェルカソフは決勝でティム・メイヨット(アメリカ)を 6-2, 6-1 で破ってツアー初優勝を飾り、同大会で第1回男子シングルス優勝者に輝いた。
1991年は全仏オープンで初の4回戦に進み、クレムリン・カップで2連覇を達成した。1991年末にソ連崩壊が起こり、ウファ出身のチェルカソフは「ロシア」国籍の選手となる。1992年、チェルカソフは全仏オープンでもベスト8に進出し、準々決勝でペトル・コルダ(当時チェコスロバキア)に 4-6, 7-6, 2-6, 4-6 で敗れた。7月のバルセロナ五輪で、チェルカソフは「ソビエト連邦代表選手」として2度目のオリンピック出場を果たし、男子シングルスの銅メダルを獲得した。準決勝ではスペイン代表のホルディ・アレッセに 4-6, 6-7, 6-3, 3-6 で敗れたが、この大会では準決勝敗退選手2名による「銅メダル決定戦」がなかったことから、チェルカソフとゴラン・イワニセビッチ(クロアチア)の2人が銅メダリストになった。
その後チェルカソフの好成績は少なくなり、男子ツアーの優勝は1990年・1991年のクレムリン・カップ2連覇のみで止まってしまう。ウィンブルドンでは1勝も挙げられず、1989年-1994年まで6年連続1回戦敗退に終わった。最後の4大大会出場は1999年全豪オープンであったが、彼は男子ツアー下部組織の大会で長く現役を続行している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- アンドレイ・チェルカソフ (英語) - ATPツアーのプロフィール
- デビスカップ成績表