アリー・ハーメネイー
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セイイェド・アリー・ホセイニー・ハーメネイー ( علی حسینی خامنهای Āyatollāh Seyyed `Alī Ḥoseynī Khāmene'ī1939年7月15日 -)は、イラン・イスラム共和国の第2代最高指導者。第3代イラン・イスラム共和国大統領。日本ではハメネイ師と表記されることが多い。
1979年のイラン・イスラム革命後、革命会議議員、国防次官、イスラム革命防衛隊司令官、大統領、最高国防会議議長を歴任した。1989年6月3日、イランの最高指導者に選出された。
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[編集] 宗教指導者
小学校卒業後、父に秘密で中学校に通った。その後の勉学は、まずマシュハドの神学校でイスラーム諸学、特にアラビア語に向けられた。1958年にイラクのナジャフに赴き、2年間神学を学んだ。その後、コム市に赴き、ホメイニー師のもとで1964年までイスラム教学を学んだ。
ハーメネイーは、ルーホッラー・ホメイニーの弟子であったにもかかわらず、他の宗教指導者のような権威を享受していない。ハーメネイーは、イスラーム法の広い知識を有しているが、コム市の活動家は、彼の権威を認めていない。この事実は、現政権の指導者の多くがコム市の宗教学校出身であるのに対して、ハーメネイーはマシュハドで宗教教育を受けたことで説明される。
ハーメネイーは、マシュハドおよびコム市の宗教学校の学生中に多くの支持者を有する。イスラム革命防衛隊、商人、聖職者の大多数も、彼の支持者である。
[編集] 反王政闘争
1962年、ホメイニー師の呼びかけにより、コム市が蜂起した。この蜂起において、ハーメネイーは、コム市に滞在しつつ、マシュハド市の宗教・政治活動家と連絡を取った。蜂起は鎮圧され、その後、ハーメネイーは数回投獄された。
その後、ハーシェミー・ラフサンジャーニー等の別組織と協力して、反王政秘密組織の再建に取り組んだ。この秘密組織は、イラン・イスラム革命で大きな役割を果たし、革命後はイスラーム共和党に再編された。
[編集] イスラム革命
革命後、ハーメネイーは、革命会議議員、国防次官(法学者代表)、イスラム革命防衛隊司令官、テヘラン市の金曜礼拝導師、第1期マジュリス(議会)代議員、最高国防会議におけるホメイニーの顧問を歴任した。
1981年、ラジャーイー大統領の暗殺後、大統領に選出され、1985年に再選した。
[編集] 最高指導者
1989年にハーメネイーが最高指導者に選出されたのは、保守派の闘う法学者協会'と改革派のハーシェミー・ラフサンジャーニーの利害の一致のためだった。彼は候補者の中で最も若く、当時大統領だったラフサンジャーニーは、改革推進において彼の協力を当てにしていた。一方、保守派の宗教・政治指導者は、余り権威のないハーメネイーが自分達の影響下に入るものと予想していた。そもそもホメイニーの後継者と指名されたモンタゼリー師が失脚してから時間がなく、ハーメネイーの最高指導者への選出は既定の路線ではなかった。ホメイニーは法学者の最高位マルジャエ・タクリードであったが、ハーメネイーは長くホッジャト・ル=エスラームにすぎず、この時昇格してもなおアーヤトッラーであり、マルジャエ・タクリードには届いていない。当初、最高指導者はマルジャエ・タクリードでなければならないとされていたため、ハーメネイーの権威に傷が付くことになったのである。
最高指導者となったハーメネイーは、1997年まで、政治の舞台では保守派の味方についた。彼は、1989年から1997年まで大統領だったラフサンジャーニーに目に見える支援を与えなかった。このことは、専門家会議を支配するコム出身の宗教活動家側からの非難を懸念したからだとされる。その外、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーと自分を対等と考え、彼に圧力を加えようとすらした。
1992年の議会選挙前日、闘う法学者協会の指導者、並びにラフサンジャーニーとの協議中、左派の勝利を許さないことが決定された。その結果、左派の活動家は、議席を得ることができなかった。議会の保守派は、強力な派閥を形成したが、ラフサンジャーニーの予想に反して、政府に協力しなかった。ハーメネイーは、保守派の圧力の下、サウジアラビアとの協力、対米関係の一部正常化、創作従事者党の創設等で、大統領を再三批判した。ハーメネイーとラフサンジャーニー間の不一致は、1997年の大統領選挙までに鮮明に現れた。ハーメネイーは、闘う法学者協会から立候補したアブドッラー・ナーテグ=ヌーリーの支持を明言し、ラフサンジャーニーは、モハンマド・ハータミーの勝利のため、闘う法学者協会の影響力低下に関するあらゆる措置を採った。
2千万人以上の国民が選出したハータミーの勝利は、ハーメネイーに自分の立場の再検討を余儀なくさせた。彼は、新大統領の方針が客観的に社会の要求に応えているとの結論を下した。保守派の宗教・政治運動支持者中には、国民中の人気の急激な低下によって引き起こされた重大な見解の相違が生じた。若干の権威ある宗教活動家、学生及びイスラム革命防衛隊の代表は、過激な保守派の政策に不満を示した。
1999年後半、情報省職員による改革派政治家の暗殺が暴露されたが、その組織者の中には、ハーメネイーが信任する情報省次官もいた。1999年中盤までに、国内情勢は、危機的状況にまで悪化した。ハーメネイーは、ハータミー等と協議し、左派・右派を問わず過激派の出現を許さないことに決めた。彼は、法治主義、並びに憲法で規定された権利と自由の保障を志向した政府の方針への同意を表明した。
ハータミー政権との妥協の結果、デモ鎮圧時に職権を濫用した法秩序警備軍将校が刑事起訴され、情報相、司法権の長、貧民財団総裁等が解任された。その一方で、1999年-2000年中、20紙以上の新聞紙が閉鎖に追い込まれ、若干のジャーナリスト及び社会・政治活動家が処罰された。
ハーメネイーは、国際舞台でのハータミーの努力を支持した。彼は、ドイツ人企業家の釈放の指示を下し、イスラエルのためのスパイ行為で死刑判決を受けたていたユダヤ系イラン人に対する判決を差し戻した。
ハータミー政権において、ハーメネイーは、行政権の政策を支持することで国民中の人気をつなぎとめ、他の権威ある宗教活動家からの圧力をかわすことに力を注いでいる。
[編集] パーソナル
マシュハド市出身。彼の父、セイイェド・ジャワードはマシュハド在住の大アーヤトッラーであり、母は、同じくマシュハドの著名なウラマー、セイイェド・ハーシェム・ナジャファーバーディーの娘というウラマー家系に生まれた。
アラビア語とアゼルバイジャン語、トルコ語を話し、英語も理解する。ペルシア文学と伝統的な民族音楽を趣味とする。原稿の準備なしに長時間演説できる雄弁家である。
1981年に爆弾テロにあった後遺症で、右手が不自由である。
アリー・ハーメネイーの弟、ハーッジ・ハーメネイーは、国会議員であり、改革派に属する。
[編集] 外部リンク
- The office of the Supreme Leader
- アリー・ハーメネイー公式サイト(ペルシャ語、英語)
- News site of the Institute for Preserving and Publishing Works by Ayatollah Khamenei
- Imam Khamenei
- BBC News' profile on Ayatollah Ali Khamenei
- Ali Khamenei: The real power in Iran
- Imam Khamenei
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