アブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー
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アブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー(ابو مصعب الزرقاوي Abū Mus‘ab al-Zarqāwī, 1966年10月20日? - 2006年6月7日)は、サッダーム・フセイン政権崩壊後のイラクに潜入し、さまざまな反米テロ事件を指導していたとされるヨルダン生まれのアラブ人テロリスト。ザルカーウィーという名前は地名から由来し、本名ではない。なお、日本の報道では長母音を省略し、アブ・ムサブ・ザルカウィとされることがほとんどである。
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[編集] 人物
オサマ・ビンラディン率いるアルカーイダの有力な「細胞」の一つとされる組織の領袖。テロリストとして国際指名手配を受け、アメリカ合衆国は彼の掃討に多額の懸賞金をかけていた。しかしながら、ザルカーウィーらのグループとアルカーイダとの関係については明確ではない部分もある。ザルカーウィーがアルカーイダ系国際テロ組織のナンバー3ということもあるが、ザルカーウィー派は本来、国際活動よりもヨルダンの王制打倒を目標としており、アルカーイダ指導部とは温度差があるという。しかし、2004年以降イラクに潜伏するザルカーウィー派は、犯行声明において反米を繰り返し訴え、オサマ・ビンラディンに対する忠誠を宣言していた(「ウッサーマ、あなたが海に飛び込むなら、私たちも海に飛び込むだろう」)。
ザルカーウィーとフセイン政権との関係については、米上院情報特別委員会(Senate Select Committee on Intelligence)の2006年の報告書、「Postwar Findings about Iraq's WMD Programs and Links to Terrorism and How they Compare with Prewar Assessments」PDFファイルにより、現在では完全に否定されている。この報告書は、「ザルカーウィとそのグループに対し、フセイン政権は関係を持っておらず、かくまってもおらず、目をつむって彼らを認可していたということもなかった(92ページ)」とCIA自身が2005年に結論づけていたと報告したが、そもそもザルカーウィーグループについては、フセイン政権との「関係」の有無を議論することに意味は無いことを申し添えておく。
2006年6月8日、イラク政府は6月7日夕方にアブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィーがバグダード65キロ北方のバクバ近郊で、アメリカ軍の爆撃により死亡し、遺体を指紋などで確認したと発表した。
[編集] 生い立ち
「ザルカーウィー」とは「ザルカーの人」を意味し、ヨルダンの首都アンマン近郊の町ザルカー出身とされる。本名はアフマド・アディル・アッ=ナザル・ハライラ( أحمد فضيل النزال الخلايله’Ahmad Fadīl an-Nazāl al-Halāyla)と言われている。アラブ人のバニーハサン族に属する貧困な家庭に生まれ、17歳のときに学校を中退したあと、1980年代にヨルダン国内で犯罪を犯して服役を経験したとされる。
その後、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に対するムジャーヒディーン(アラブ義勇兵)としてアフガニスタンにわたった。前後してイスラム主義(イスラム原理主義)運動にのめりこんだザルカーウィーは、アフガニスタンのキャンプをベースとして反ユダヤとヨルダンにおけるイスラム国家の樹立を掲げる戦闘的なイスラム主義組織「タウヒードとジハード集団」を立ち上げた。
[編集] ヨルダンとアフガニスタンでの地下活動
1992年、故国ヨルダンで活動していたザルカーウィーは王制打倒とカリフ制の樹立を目指す過激活動を摘発され、数年間収監されたとされる。1999年に恩赦で刑務所を出た彼は、2000年初頭にアンマンにあるイスラエル人やアメリカ人の宿泊するラディソンSASホテルを爆破しようとして陰謀が発覚し、パキスタンを経てアフガニスタンに逃げ込んだ。
アフガニスタンではアルカーイダと接触し、その支援を受けてヨルダンでの体制変換を目指すテロリストの養成キャンプをヘラートの近郊に築いた。
米国ブッシュ政権によると、ザルカーウィーのキャンプは毒物など大量破壊兵器の装備を進めていたとされる。また、2001年のアメリカ同時多発テロ事件に前後してイラクの政権関係者と接触していたとされ、2003年のアメリカのイラク侵攻の大きな開戦理由のひとつとなった。
同時多発テロ後に起こったアメリカのアフガニスタン侵攻時にはアフガニスタンにいて爆撃で負傷したが、アフガニスタンからイランに逃れた。その後のザルカーウィーはイラクやヨルダンで潜伏しながら活動を継続したとみられ、2002年にアンマンでアメリカ人の外交官殺害事件を起こしたのもザルカーウィーのグループであるとされる。
[編集] イラクでの活動
2003年から2004年にかけて、ザルカーウィーのグループイラクの聖戦アルカーイダ組織はサッダーム・フセイン政権倒壊後も混乱が続くイラクに潜入し、アンマンとバグダードの中間地点にあたり、アメリカ合衆国軍と地元住民の間で紛争が起こっていたファルージャの近辺に抵抗拠点を築いたとみられる。
2004年春以降、ザルカーウィーのグループ「タウヒードとジハード集団」は、5月のアメリカの民間人殺害をはじめイラクに滞在中の外国人を人質に取り、さらには首を切って殺害する事件を起こした。これらは人質を覆面の男が拘束し、撤退などの要求をつきつけたり報復を叫んで殺害する様子をビデオに収め、インターネットや中東のメディアに発信するというもので、いずれも自ら「タウヒードとジハード集団」を称する。10月末に起こった日本人男性の拘束・殺害事件も、当初にインターネットを通じて発信された脅迫映像で、犯人グループは自らザルカーウィーのグループを名乗った。日本ではこの事件以降、日本人男性の拘束・殺害事件の被疑者として「ザルカウィ容疑者」と呼ばれるようになった。※ただし例外は朝日新聞で、ずっと「ザルカウィ幹部」と表記してきたが、同容疑者が殺害されたことを報じる記事以降、突然、何の説明もなしに「容疑者」呼称となった。
イラク暫定政権への政権移譲に前後して繰り返し起こった爆破テロ事件も、いくつかにザルカーウィーの名で犯行声明が出された。また、2003年8月の国際連合ホテル爆破テロなど、アメリカ主導の新政権作りを揺さぶるために行われたいくつかのテロ事件も、ザルカーウィーの仕業によるものとされる。
2004年夏にはアメリカ軍によるファルージャでのザルカーウィー派の拠点とみられる民家への爆撃などが行われたが、効果があった痕跡はない。同年10月、同派は組織名を「イラクの聖戦アルカーイダ組織」と改め、アルカーイダとのつながりを再び強調した。
彼の非道な行為に対し、イラク人は元より親族も心を痛めており2005年11月には兄弟や親族一同がザルカーウィーに対し絶縁状を叩き付けた。
さらに末期時、彼は数多くの過ちを犯した為、軍事政治部門の指導者から軍事部門の指導者に降格されたとされている。
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2006年6月7日から8日にかけて、米軍報道官の発表によれば、バクバ市にあるザルカーウィーの潜伏先を標的としたアメリカ空軍のF16戦闘機による500ポンド爆弾2発の爆撃を受けた。しかし、ザルカーウィーは即死には至らず致命傷を負いながらも生存していた。即座にイラク軍特殊部隊及び第145任務部隊が現場に入り、彼を発見し担架に乗せた後、指紋採取などにより本人であることを確認した。担架の上で、聞き取り不能な言葉を発したり、逃亡しようとする様子も見せたが、爆撃による傷のため、すぐに死亡したとされる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク