藤原通任
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藤原通任(ふじわらのみちとう、天延元年(973年)?‐長暦3年(1039年))は、平安時代中期の公卿。藤原北家師尹(小一条流)。生年については974年とする説もある。父は大納言藤原済時。母は大納言源延光女または皇后宮亮源能正女・治部卿源兼忠女など諸説ある。兄弟に藤原為任・藤原相任・全覚(権少僧都)・宗覚(僧都)・藤原娍子(三条天皇皇后)・敦道親王妃がいる。室は藤原尊子(関白藤原道兼女・一条天皇女御)・従三位藤原永頼(または播磨守藤原信理)女らがおり、子に藤原師成がいた。
春宮(居貞親王=のちの三条天皇)亮を務め、寛弘8年(1011年)に三条天皇が即位するとその蔵人頭に任ぜられる。同年7月に禁色・雑袍を許され、12月に参議に任ぜられる。長和元年(1012年)正月に従三位に叙せられる。万寿元年(1024年)正三位に昇叙され、長元8年(1035年)権中納言になる。長暦3年(1039年)67歳(66歳とも)で薨去。最終官位は従二位中納言だった。
藤原道長政権下にあって、藤原娍子立后に関与したり、東宮敦明親王の春宮権大夫を務めるなど、他の公卿が忌避する任務も遂行した。そのため、道長が病に倒れたときにこれを喜ぶ公卿の一人(残りは藤原道綱・藤原実資・藤原懐平)として噂されるなど、宮廷内では反道長派と見做された。