藤原師尹
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藤原 師尹(ふじわら の もろただ、延喜20年6月2日(920年7月24日) - 安和2年10月15日(969年12月1日))は平安時代中期の公卿。藤原北家小一条流の祖で、子孫に小一条家、その庶流の飛騨国司姉小路家がある。正二位、左大臣。
[編集] 経歴
藤原忠平の五男。天慶9年(946年)参議となる。天暦2年(948年)権中納言。天暦5年(951年)中納言。
娘の芳子を村上天皇に入内させ、天徳2年(958年)女御の宣下を受ける。芳子は容貌すぐれて天皇の寵愛が深く昌平親王と永平親王を産むが、病弱であったため東宮(皇太子)にはなれなかった。
康保4年(967年)、村上天皇が崩御して、冷泉天皇が即位すると関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には師尹が就いた。師尹は実頼と謀って、妃が高明の娘である年長の為平親王を外して、守平親王を東宮に立てた。
安和2年(969年)3月、為平親王を奉じて乱を起こそうとしているとの謀反の密告により、左大臣源高明が失脚する(安和の変)。師尹は高明に代わって左大臣に昇るが、その半年後の同年10月、師尹は死去した。安和の変は高明の失脚を謀った師尹の企みであったとされ、左大臣昇任後一年もたたずに死去したことについて、世間では源高明の恨みによる物と噂された(大鏡)。また、後世の人に「腹黒シキ人」と評された。