藤原懐平
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藤原 懐平(ふじわら の かねひら、天暦7年(953年) - 寛仁元年4月18日(1017年5月16日))は、平安時代中期の公卿。初名は懐遠。藤原北家小野宮流。摂政太政大臣藤原実頼の孫。参議藤原斉敏の子。母は播磨守藤原尹文女。正三位藤原高遠・右大臣藤原実資の同母兄。室は大宰大弐藤原佐理女・中納言源保光女・出羽守藤原常種女らがおり、子に藤原資平(藤原実資養子)・藤原資高(藤原高遠養子)・藤原資頼(藤原実資養子)・藤原経任・良円(法興院別当)・藤原兼頼室らがいた。
安和2年(969年)に叙爵。侍従、少納言、蔵人、右中弁、修理大夫、紀伊権守などを歴任し、寛和2年(986年)非参議になり、長徳4年(998年)参議になる。長和元年(1012年)4月、三条天皇皇后藤原娍子が立后するに際し、左大臣藤原道長の妨害に抗して弟実資とともにこれに参仕した。長和2年(1013年)権中納言になった。この間に、美作守・春宮(居貞親王、のちの三条天皇)大夫・左兵衛督・検非違使別当・皇后宮(藤原娍子)大夫・右衛門督などを兼帯した。位階は正二位まで昇進したが、寛仁元年(1017年)4月18日、65歳で薨去した。
篤実で剛腹な人柄で、道長の露骨な妨害に屈せず三条天皇や藤原娍子に近侍したことからも彼の気骨が伺える。また道長の政敵として自他共に認める存在であり、長和元年6月に道長が病に倒れたとき、これを喜ぶであろう人物として藤原道綱・藤原隆家・藤原通任とともに実資と懐平の名が挙がっている(『御堂関白記』長和元年4月27日条・『小右記』長和元年6月20日条など)。
室の一人は藤原佐理の娘であるが、彼女は父と同じく能筆家として名高かった。