藤原兼頼
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藤原 兼頼(ふじわら の かねより、長和3年(1014年) - 康平6年1月11日(1063年2月11日))は、平安時代後期の公卿。右大臣藤原頼宗の長男で、母は藤原伊周女。同母兄弟に俊家・能長・敦明親王妃(院の上)・延子(後朱雀天皇女御)・昭子(後三条天皇女御)がいる。基貞は異母弟。室に源忠重女がおり、宗実を儲けた。小野宮中納言と号した。
『公卿補任』には祖父道長の養子になったと記載する。治安3年(1023年)源倫子(道長室)の六十賀に納曽利を舞う。万寿3年(1026年)元服し、即日叙爵された。同年禁色を許され、侍従・近江介・左右中将などを歴任し、長元4年(1031年)参議になる。長元8年(1035年)、高陽院水閣歌合において左方の念人を務めた。長久3年(1042年)権中納言になったが、康平6年(1063年)正月11日に50歳で薨去。最終官位は正二位権中納言兼春宮権大夫(尊仁親王、後の後三条天皇)だった。
『尊卑分脈』では兼頼は小野宮中納言と呼ばれたと記されるが、同じく小野宮と号した藤原実資(小野宮右大臣)と親交があり、実資が兼頼の家人に馬や装束を送ったり、兼頼の母が病気になった際に病修法の料(費用)を送ったりして何かと心配りしていたらしい。