藤原経任
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藤原 経任(ふじわら の つねとう、長保2年(1000年) - 治暦2年2月16日(1066年3月14日))は、平安時代後期の公卿。権中納言藤原懐平の三男で、母は藤原佐理女。兄弟に経通・資平・資頼らがいた。白髪大納言と呼ばれた。
藤原斉信の養子になり、長和元年(1012年)叙爵。右衛門佐・左近権少将・備後介・侍従・左中弁などを歴任し、長元3年(1048年)蔵人頭になり、長元8年(1053年)参議になる。永承3年(1048年)権中納言、治暦元年(1065年)権大納言になるが、翌年2月に67歳で薨去した。この間に修理大夫・左兵衛督・検非違使別当・治部卿・皇后宮(四条宮藤原寛子)権大夫などを兼帯していた。最終官位は正二位権大納言だった。
母方の祖父は能書家として知られる藤原佐理で、母(藤原懐平室)も佐理に劣らぬ「女手書き」と称賛される能書家だった(『大鏡』二)。経任自身も「才などありてうるはしくぞものし給ける。文つくり歌よみなど古の人にはぢずぞものし給ける」と、優れた文人として名声を博していたらしい(『栄花物語』三二)が、彼の書いた作品は現存しない。但し、日記『経任大納言記』(散逸)があったことが、『殿暦』などの記事によって知られる。