藤原寛子
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藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ)
- 藤原忠平の次女、重明親王妃。
- 藤原道長の三女、敦明親王妃。
- 藤原頼通の長女、後冷泉天皇皇后。
[編集] 藤原寛子 (藤原忠平の次女)
藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、延喜6年(906年) - 天慶8年1月18日(945年2月8日))は、太政大臣藤原忠平の次女。重明親王妃。
延長7年(929年)に徽子女王、天慶5年(942年)に悦子女王を産む。天慶8年(945年)夫に先立ち40歳で死去、これにより当時伊勢斎宮の任にあった娘徽子女王は斎宮を退いた。
[編集] 藤原寛子 (藤原道長の三女)
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藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、長保元年(999年) - 万寿2年7月9日(1025年8月10日))は、藤原道長の三女。母は源明子。敦明親王(小一条院)妃。別名高松殿女御。なお、長和2年9月16日(1013年10月23日)に道長の娘たちが叙位された件について『御堂関白記』には、提子、『小右記』には媞子という名称で登場(従三位に叙任された)しており、寛子は後の改名であったと考えられている。
寛弘6年(1009年)に着裳の儀式を行い、従四位上を叙される。長和2年(1013年)従三位に昇進。寛仁元年(1017年)11月22日、敦明親王と結婚し、高松殿を居所とする。同2年(1018年)に儇子(かんし)内親王、治安3年(1023年)に敦元親王を産む。万寿2年(1025年)、27歳で薨去。
三条天皇の死後、自ら皇太子を退いた敦明親王への返礼の意味も兼ねて、道長は娘寛子の婿に親王を迎えた。しかし既に皇子をもうけていた妃藤原延子とその父藤原顕光は激しい嘆きのうちに相次いで死去、後に病に倒れた寛子の臨終には二人の怨霊が現れたという。(『栄花物語』)
[編集] 藤原寛子 (藤原頼通の長女)
藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、長元9年(1036年) - 大治2年8月14日(1127年9月30日))は、藤原頼通の長女。母は藤原祇子。後冷泉天皇皇后。別名四条宮。同母弟に藤原師実。
寛子の母祇子は素性がはっきりせず、母方の血統を重んじた当時身分低い女性から生まれたことは貴族社会において不利であったが、子女に恵まれなかった頼通にとっては待ちに待った娘であった。特に養女嫄子(後朱雀天皇中宮)が早世した後は、頼通はこの一人娘に皇太子誕生の命運を賭けて永承5年(1050年)12月22日後冷泉天皇に入内させ、さらに翌年2月13日、皇后宮に冊立する。父関白の強力な後見を受けて、歌合を催すなど風流を好んだ皇后寛子の御殿は非常に華やかであった(その様子は、寛子に仕えた女房の私家集『四条宮下野集』に記されている)。
しかし父頼通の多大な期待を背負い、素直な明るい気質で後冷泉天皇の篤い寵愛を受けたにもかかわらず、皇后寛子はついに御子を産むことはなかった。治暦4年(1068年)、後冷泉天皇に先立たれた寛子は、同年出家する。翌年皇太后、延久6年(1074年)太皇太后となり、大治2年(1127年)92歳という高齢で宇治別宅にて崩御した。