藤原尊子
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藤原 尊子(ふじわら の たかこ)
[編集] 藤原尊子 (藤原道兼の長女)
藤原 尊子(ふじわら の たかこ(そんし)、永観2年(984年) - 治安2年12月25日(1023年1月19日))は、藤原道兼の長女。母は藤原師輔の娘・繁子。一条天皇女御、後に藤原通任夫人。暗戸屋女御、前御匣殿女御と称された。
父の病没後である長徳4年(998年)、一条天皇に入内。御匣殿別当・従五位上となる。長保2年(1000年)8月に女御宣下を受ける。長保3年(1001年)1月に従四位下、長保6年(1004年)1月に従四位上、寛弘2年(1005年)1月10日に従三位、同年1月13日に正三位、寛弘7年(1010年)1月に従二位に昇進。
寛弘8年(1011年)に一条天皇が没し、長和4年(1015年)10月3日に参議の藤原通任へ嫁いだ。治安2年(1022年)12月25日、39歳で死去。
なお、一条天皇・藤原通任との間には共に子は無かった。
[編集] 藤原尊子 (藤原道長の五女)
藤原 尊子(ふじわら の たかこ、長保5年(1003年)? - 応徳4年7月7日(1087年8月7日)?)は、藤原道長の五女。母は源明子。太政大臣源師房正室。子に源俊房・顕房・仁覚・麗子(藤原師実正室)・妧子(藤原通房正室)・澄子らがいる。初名は隆子。なお、初名については父・道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』に記されており、婚姻時に夫の姉で尊子の異母兄藤原頼通の正室でもあった源隆姫(具平親王皇女)の名前と重なるために改名したと考えられている。
寛弘4年(1007年)4月27日に弟の長家とともに着袴の儀式を行い、長和2年(1013年)9月16日に従四位下を叙される。長和4年(1015年)9月20日には従三位に昇進。寛仁元年(1017年)4月26日に長家の元服に合わせて着裳の儀式を行った。
万寿元年(1024年)3月27日、当時右近衛権中将であった頼通の猶子源師房と結婚した。元皇族であるとは言え、道長の娘で「たゞ人」(非皇族・非公卿)と婚姻を結んだのは尊子だけであった。『大鏡』・『栄花物語』によればこれに尊子の同母兄である頼宗や能信は強い不満を抱いたとされている。だが、当時の皇族・公卿の中に道長の娘婿に相応しい未婚の適齢者がいなかったのは事実であり、また道長にとって師房は「義理の孫」にあたり、これを可愛がっていたことから道長にとっては身内に嫁がせるのと全く同じであったのである。
またこれは他の藤原氏の公卿と争って摂関の独占を果たした道長一門にとっては藤原氏と摂関の地位を争う立場にはない村上源氏の公卿との連携は不可欠であったという側面もあった。事実、頼通の後継者とされていた通房(早世)・師実(関白)の正室はともに師房・尊子夫妻の娘であり、以後両家は婚姻を重ねながら、宮廷政治を動かすようになっていく。また、夫婦関係は半世紀以上にわたって良好であり、夫の死後も二人の息子が揃って左大臣・右大臣に並び立つなど、自身または夫の死によって決して幸福とは言い難かった他の道長の娘の結婚生活と比較をすれば、幸福なものであったと言えるだろう。