藤原為任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原 為任(ふじわら の ためとう、?-寛徳2年(1045年))は、平安時代中期の貴族。藤原済時の子で、母は源兼忠の娘ともその子能正の娘とも言われる。藤原済時の子弟に関しては不明な部分もある(『公卿補任』と『尊卑分脈』でも記述が異なる)が、一般的には済時の庶長子で、源延光の娘所生の藤原娍子(三条天皇皇后)・藤原通任らの異母兄とされている。正室は源為頼の娘。子に藤原定任・済任ら。
右馬助・少納言を経て、父の死後に彼が庇護していた異母妹の娍子が東宮居貞親王(後の三条天皇)に入内した正暦2年(991年)には従五位下右少弁であった。だが、常に嫡男とされた弟の通任よりも下位にあった。長徳2年(995年)には蔵人に任ぜられるが、自己の昇進の遅滞に不満を抱き、民部大輔であった寛弘3年(1006年)には、1年以上の不参を理由に除籍されている。
三条天皇の即位後、藤原娍子が后妃に立てられると思われていたが、内覧左大臣である藤原道長は、自分の娘藤原妍子を入内させて后妃に立てようと図り、これを阻もうとした。だが、長年正妃的な地位にあり、3人もの親王を儲けた娍子の存在を無視することは道長でも困難であり、漸く娍子を皇后・妍子を中宮とすることで折り合いをつけたが、その後も道長は娍子側に圧迫を加えた。その後に為任が道長を呪詛しているという風説が流れている(『小右記』長和元年6月17日条)。長和2年(1012年)に娍子が御所に参内した際には、自邸を里邸として娍子を庇護していた為任は未だ従四位下皇后亮であり、前年に従三位参議修理大夫に昇進して公卿となっていた通任が仕切った。その後、天皇は道長が通任の昇任を働きかけた際に、道長はの庇護者は為任であり、通任は偶々その代理をしたに過ぎないことを指摘し、もし参内の功労で通任が叙位されれば、為任の功績をもって通任が賞を受けることとなり、「伊賀の人が(大国の格式を持つとされた)伊勢の人と偽るようなものだ(然伊賀人借伊勢人歟)」と天皇の姿勢を批判した(『御堂関白記』長和2年3月20日条)。その結果、為任が従四位上に叙せられた。また、藤原実資と結んでその家司的な役割を果たしている。
長和3年(1013年)、為任は当時最も富裕な国の1つと考えられていた伊予守に任じられた。だが、三条天皇の退位、娍子所生の敦明親王の皇太子辞退、そして娍子の死などもあり、従四位上伊予守を極位極官として遅くても万寿年間には出家していたようである。そして、『尊卑分脈』には寛徳2年に射殺されたとのみ記されており、晩年の動向及び殺害に至る経緯については不明のままである。
[編集] 参考文献
- 倉本一宏「『伊賀人借伊勢人歟』について」(『摂関政治と王朝貴族』(吉川弘文館、2000年)ISBN 978-4-642-02349-8