沖縄社会大衆党
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委員長 | 喜納昌春 |
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書記長 | 比嘉京子 |
成立年月日 | 1950年10月31日 |
本部所在地 | 沖縄県那覇市泉崎1-17-19 クリーン泉崎ビル3階 |
衆議院議員 | 0 /480 (2008年6月10日現在) |
参議院議員 | 1 /242 (2008年6月10日現在) |
党員・党友数 | 未公表 |
政党交付金 | 0円 (非交付団体) |
政治的思想・立場 | 革新 |
ウェブサイト | 社大党 Official website |
沖縄社会大衆党(おきなわしゃかいたいしゅうとう)とは、沖縄県にある地域政党。略称は社会大衆党もしくは社大党(しゃだいとう・しゃたいとう)。戦前期日本の無産政党である社会大衆党とは無関係である。
目次 |
[編集] 概要
1950年10月31日、沖縄群島知事の平良辰雄が中心となって結成された。当初は比嘉秀平(後の行政主席)や西銘順治(後の沖縄県知事)などの保守系政治家も在籍しており、幅広い階層からの支持を受けていた。その後、比嘉秀平や西銘順治が相次いで離党したことで革新色を強めていき、沖縄人民党とともに沖縄本土復帰運動の中心に立っていった。しかし人民党との共闘については党内でも批判があり、度々路線対立が起きた。
1970年の国政参加選挙で、衆議院に安里積千代が当選し、国会に議席を得た。1972年の本土復帰を前に、日本社会党への合流が提案された(このとき、沖縄人民党は1973年に日本共産党に合流した)。また、当時の安里積千代委員長は党解散の上、各人それぞれが移籍先を選ぶべきだと主張した。安里は復帰後の1972年の総選挙に出馬し、当選すると民社党に移籍した。しかし結局、党はどちらにも合流せず沖縄地域政党として存続することになった。
綱領自体は「左右の全体主義を排する国民政党」など民社党に近いものだったが、政策・活動は革新色の強いものとなってゆく。選挙では、民社党は自民党に味方することが多く、両党は間接的ではあるがしばしば対決することになった。
現在は喜納昌春が委員長・参議院議員の糸数慶子が副委員長を務め、書記長の比嘉京子ら県議会議員と各市町村の議員が活動し、沖縄の革新勢力をまとめる存在として根強い影響力を持っている。
[編集] 最近の動向
小選挙区比例代表並立制が初めて導入された1996年の総選挙では党顧問仲本安一が共産党と新社会党の推薦を得て党の公認候補(また共産党は当初は公認候補擁立を検討していたが仲本推薦により擁立を回避した。小選挙区導入後2003年の総選挙まで同党が公認候補を立てなかったのはこの回のこの選挙区のみ)として沖縄県第2区から立候補し、当時の新進党のベテラン候補に善戦しながらも次点で落選した。また2001年の参院選で、当時の書記長新垣重雄が新社会党・第二院クラブの推薦を得て東京都選挙区から無所属で出馬、党にとって初の県外進出となったが大差で落選した。
2004年の参院選では、勇退する島袋の後継者として糸数慶子が立候補し当選、島袋の議席を守った(1992年の沖縄県議選でも糸数は島袋の地盤を引き継いでいる)。しかし、第二院クラブ等、適当な会派がないため無所属で活動をしている(選挙前には民主党の候補者研修にも参加しており、当選後は喜納昌吉を通じて民主党会派入りの打診もあった。しかし、社会民主党や共産党の推薦も受けており、特に共産党は特定政党の会派に入らないよう要求していたため、純粋無所属となっている)。
2005年の総選挙では沖縄県第1区において元自民党で無所属の下地幹郎(後に政治団体「そうぞう」を結成)と共産党公認の赤嶺政賢の両候補者を支援し、小選挙区で下地が公明党公認の前職を破ると共に赤嶺が比例で当選した。
2006年11月の沖縄県知事選では糸数が参議院議員を辞職して、無所属で野党統一候補として立候補。社大・民主・社民・共産・国民新・日本・自連の推薦、そうぞうの支持を受け、自民・公明が推薦した仲井眞弘多と争ったものの落選、革新勢力は8年ぶりの県政奪還は成らなかった。
2007年の参院選では前年の知事選とほぼ同じ枠組み(民主・共産・社民・国民新推薦、そうぞうは自主投票)で無所属統一候補として糸数を再度、擁立し当選させた。
16年ぶりに与野党が逆転し革新勢力が多数派となった2008年の沖縄県議会議員選挙では同じ野党勢力の民主党・共産党が躍進した煽りを受ける形になり、中頭郡選挙区で喜納委員長が落選したのを始め議席数を改選前の4から2に半減させる結果に終わった。
[編集] 他党との選挙協力
社大党は、民主党・社民党・共産党・新社会党と各種選挙で協力している。沖縄で限定的ながら、社共共闘が生き残っているのは社大党の力が大きい。しかし、1998年の知事選をきっかけに公明党が革新勢力から離れ、自民党に与してからは苦戦が目立つ。2006年には、自由連合も自民党に与するようになった。また、いずれも共産排除を望む保守系政治団体のそうぞう及び革新色が薄い民主党と、独自行動の多い共産党との間で苦慮する場面も見られる。
国政選挙では復帰後に安里積千代が当選したあと衆議院選挙では社会党・公明党・共産党の公認候補を推薦、参議院選挙では社会党・共産党・公明党と一緒に革新統一の公認候補を擁立(その場合マスメディアは「諸派」扱い、党派は「革新共闘会議」としていた)または革新統一の無所属候補として4党相乗りで推薦したが(公明党は支持にとどまるほうが多かった)、1992年の参院選で当時の島袋宗康委員長が党公認(革新統一候補・社会党などと一緒に3党の推薦・支持)で立候補し、現職の自民党系候補を破り当選(これにより沖縄県の自民党参議院議員は県選出が、1995年から比例代表の県出身者を含め2001年の選挙まで一人もいない状態であった)。党として安里積千代以来の国政での議席を獲得し、第二院クラブの会派に入った(その間、社大党は二院クラブの沖縄支部も兼ねていた)。
沖縄県議会では野党系無所属議員2名と「社大党・ニライの会」を、那覇市議会では社民党と「社社連合」をそれぞれ統一会派として結成している。
[編集] 所属議員
- 参議院議員
- 糸数慶子(参議院では「各派に属しない議員」に分類)
- 沖縄県議会議員
- 大城一馬(会派代表)
- 比嘉京子
- 那覇市議会議員
- 平良識子
- 比嘉憲次郎
- 浦添市議会議員
- 與座澄雄
[編集] 党勢の推移
[編集] 衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 0/- | 467 | 米国占領下のため出馬できず |
第33回総選挙 | 1/1 | 491 | 民社党へ移籍-1 |
第40回総選挙 | 0/1 | 500 |
[編集] 参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | 0/- | - | 250 | 米国占領下のため出馬できず |
第16回通常選挙 | 1/1 | 0 | 252 | |
第18回通常選挙 | -/0 | 0 | 252 | 無所属として出馬、当選1 |
第19回通常選挙 | -/0 | 0 | 242 | 無所属として出馬、当選0(東京都選挙区) |
第20回通常選挙 | -/0 | 0 | 242 | 無所属として出馬、当選1 |
第21回通常選挙 | -/0 | 0 | 242 | 無所属として出馬、当選1 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
- 『戦後政治史』にない追加公認は2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1990年~1999年)・国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1993年~2000年)・2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、2000年~2006年)、(2) 参議院(1990年~1999年)(2) 参議院(1994年~2004年)・(2) 参議院(2000年~2006年)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 社大党(公式サイト)
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全国政党 | 与党 : 自由民主党 - 公明党 野党 : 民主党 - 社会民主党 - 日本共産党 - 国民新党 - 新党日本 |
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地域政党 | 新党大地 - そうぞう - 沖縄社会大衆党 ※国会に議席を有する政治団体。 |