自由連合 (政党)
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代表 | 徳田虎雄 |
---|---|
幹事長 | 石井一二 |
成立年月日 | 1994年12月 |
本部所在地 | 東京都千代田区平河町2-7-1 塩崎ビル6F |
衆議院議員 | 0 /480 (2006年11月2日現在) |
参議院議員 | 0 /242 (同上) |
党員・党友数 | 約100人 (2005年4月1日現在) |
政党交付金 | 0円 (非交付団体) |
政治的思想・立場 | 保守 |
ウェブサイト | 自由連合 |
自由連合(じゆうれんごう、略称:自由連、自連、英:Liberal League"(LL)、"Jiyuu Rengou"(JR))は、日本の政党(2008年元日からは政党要件喪失した政治団体)。
目次 |
[編集] 概説
[編集] 第1期
1990年、第39回衆議院議員総選挙で初当選した徳田虎雄の設立した保守系無所属議員のための政治団体が原型。1994年に政党化した。当初は政権獲得を目指すが、大内啓伍、椎名素夫、柿沢弘治、佐藤静雄ら主に保守系国会議員が離合集散を繰り返し、所属議員の出入りが激しかった。党名も頻繁に変更し、1997年1月には自由の会と改称、12月には細川護煕のフロム・ファイブに合流したが、2週間足らずでフロム・ファイブは民政党に合流した。
政策は非自民非共産連立を拒否した保守政党ということで自由民主党に近く、大内など自民党移籍のクッションに使う例も横行した。一方、日本共産党・第二院クラブ・新党護憲リベラルらと共に消費税廃止法案を共同提出したこともある。
[編集] 第2期
1998年、徳田は政治団体として残っていた自由連合を新党自由と改称して再建するが、小沢一郎が自由党を結党したため、3日で再び自由連合に戻した。第18回参議院議員通常選挙で得票率2%を獲得し、政党要件を得ると、政党自由連合と改称。第42回衆議院議員総選挙後、自由連合に戻した。
国政選挙では勝算を度外視した候補擁立を行い、1998年の第18回参議院選挙、2001年の第19回参議院選挙ではほぼ全国に公認候補を立てたが、当選には遠く及ばなかった。タレント候補を大量擁立し、5議席獲得を目標として自民党を上回る92人の候補を立てたが、1議席も獲得できなかった。勝算を度外視して全国に候補を立てたのは、得票率2%の政党要件を得るための擁立とも言われた。スポーツ平和党、国民党、日本福祉党、雑民党、自由党(高橋・石川派)などミニ政党の候補者を自党公認として組み込んだ例も多い。自由連合が現実的に影響力を持つのは、徳田虎雄の地元である鹿児島県と、隣の沖縄県にほぼ限定されている。
医師で病院経営者でもある徳田が代表について以来、「医療ビッグバン」など医療・福祉関係の政策を全面に打ち出すようになった。その他の政策については概して自民党など他の保守政党とほぼ同じ。
幹事長であり参議院議員であった石井一二は2001年の参議院議員選挙で落選した。この時の選挙で自由連合は、比例区で政治経験の全くないタレントやスポーツ選手を大量に擁立した。このことはスポーツ新聞などのマスコミの注目を浴びたが、一方で世論の激しい批判を浴び、その影響もあったのか、結局当選者を出すことはできなかった。2003年10月28日告示の選挙後、国会の議席は自由連合代表(徳洲会理事長)である徳田虎雄衆議院議員1人だけであった。この選挙を最後に、国政選挙での勝算を度外視した候補擁立は行われなくなった。
[編集] 第3期
第44回衆議院議員総選挙では、徳田虎雄は病気のため引退を表明。次男の徳田毅を無所属で擁立した。毅は民主党の推薦を受け当選したが、選挙後自由連合に入党し、虎雄の後継として代表となった。
しかし、自由連合の創始者である徳田虎雄が創業し、運営していた徳洲会グループ内の病院二箇所において10件以上に及ぶ病気腎移植及びその関与が行われたことが発覚し、世論が沸騰する中、2006年11月2日代表徳田毅が離党し、引退していた父虎雄が代表に復帰。これにより、党所属の国会議員はいなくなった。同日告示の沖縄県知事選で、自由連合は野党系の糸数慶子を推薦したが、毅は与党系の仲井眞弘多を支援し、仲井眞が当選した。
仲井眞支援は毅の自民入党への布石と見られていたが、果たして11月29日、毅は自民への「入党願」を出した。毅は父の虎雄が筋萎縮性側索硬化症で闘病中と述べ、「地方議員はいるので、自由連合を今後どうするかは父の判断だ。しかし、参院選に候補者を立てるのは難しいのではないか」と語った。12月20日、毅は自民に入党した。虎雄は過去に地方組織や日本医師会の反発で自民入党を白紙にされたことがあったが、父子合わせて3期連続議席を確保するほど地盤があること、日本医師会がかつてほどの影響力を持っていないこと、自民の側の抵抗も弱まっていたことが、毅の自民入党につながった。
徳田毅は「自由連合は、自民の友好団体として協力する」と表明したが、鹿児島県議会で唯一の自由連合議員(奄美市選挙区)は無所属として自民候補と争った。党内には、毅の発言に「自由連合の外に出た人が決めることではない」と反発もあった。結果として、自由連合の公認・推薦を得られなかった候補は落選し、奄美市選挙区の議席は自民が独占した。また、沖縄では、現在でも他の野党陣営から選挙協力に留まるよう要請を受けている。
最近では広島での同和問題の恐喝事件に和田静夫が関与していた事が広島県警の調べで判明し、捜索を受けた。和田は議員時代は日本社会党に所属していたが、落選後に新社会党の顧問となった。2001年の小泉旋風の参議院議員通常選挙では、自由連合常任顧問として比例代表から出馬するが落選。
2007年の参院選では元自由連合副幹事長で元茨城県那珂町議の武藤博光が茨城選挙区から共生新党の公認で出馬、神奈川選挙区では元自由連合女性局長代理で元埼玉県志木市議の齋藤幸子(斉藤さちこ)が国民新党から出馬したが、両名とも惨敗・落選した。
[編集] 歴代の自由連合執行部役員表
- 第1期1994年12月 ‐ 1997年1月)
代表 | 副代表 | 幹事長 | 総務会長 |
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大内啓伍(総裁) 柿沢弘治(代表) |
栗本慎一郎 (代表幹事) |
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石井紘基 | |||
小島慶三 | 江本孟紀 | 田村公平 | 徳田虎雄 |
徳田虎雄 | 田村公平 | 江本孟紀 | |
椎名素夫 | 遠藤武彦 末広真季子 |
田村公平 | 江本孟紀 |
- 第2期(1998年1月 ‐ )
代表 | 幹事長 | 総務会長 | 政策審議会長 | 顧問 |
---|---|---|---|---|
徳田虎雄 | 小泉晨一 (代表幹事) |
|||
〃 | 石井一二 | 小泉晨一 | 石井一二 | 野末陳平 |
- 第3期2005年8月 ‐ )
代表 | 幹事長 | 総務会長 | 政策審議会長 | 顧問 |
---|---|---|---|---|
徳田毅 | 〃 | 〃 | 〃 | 徳田虎雄 (最高顧問) |
徳田虎雄 |
[編集] 自由連合の政権ポスト
()内は入閣直前の党役職
- 政務次官
- 沖縄開発政務次官・徳田虎雄
[編集] 党勢の推移
[編集] 衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結成時) | 8/- | 511 | 第41回総選挙前には2 |
第41回総選挙 | 0/88 | 500 | |
第42回総選挙 | 1/126 | 480 | |
第43回総選挙 | 1/1 | 480 | |
第44回総選挙 | -/0 | 480 | 追加公認+1 |
[編集] 参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | 0/- | - | 252 | |
第17回通常選挙 | -/0 | 0 | 252 | |
第18回通常選挙 | 0/55 | 0 | 252 | |
第19回通常選挙 | 0/92 | 0 | 247 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
- 『戦後政治史』にない追加公認は2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1990年~1999年)・国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1993年~2000年)・2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、2000年~2006年)、(2) 参議院(1990年~1999年)(2) 参議院(1994年~2004年)・(2) 参議院(2000年~2006年)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はない。
- 法律上は、第41回総選挙の自由連合と第18回通常選挙以降の自由連合は別団体だが、ここでは継続した団体として扱う。
- 第42回総選挙は、「政党自由連合」の実績。