広島市への原子爆弾投下
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広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)
この項目では、第二次世界大戦末期の1945年8月6日にアメリカ合衆国が日本の広島県広島市に投下した原子爆弾に関する記述をする。これは実戦で使用された世界初の核兵器による都市攻撃であり、都市を対象とした爆撃では史上最大級の規模であった。この一つの爆弾により一般市民十数万人が死亡し、都市は壊滅した。
目次 |
[編集] 原子爆弾投下時
[編集] グアム島
8月2日、グアム島の第20航空軍司令部から、テニアン島の第509混成部隊に以下に示す極秘野戦命令が通達された。
- 作戦命令書13号 1945年8月2日
- 攻撃日 8月6日
- 攻撃目標 広島中心部と工業地域
- 予備第2目標 小倉造兵廠および同市中心部
- 予備第3目標 長崎市中心部
- 特別指令 目視投下に限ること
[編集] テニアン島
8月4日、B-29エノラ・ゲイ号[1]は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場[2]に帰還した。
8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した[3]。同時刻、テニアン島ではブリーフィングでポール・ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイの搭乗員に出撃命令を伝えた、「今夜の我々の作戦は歴史的なものだ」。
翌日未明8月6日午前0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレート・フラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フル・ハウス号は長崎である。午前0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。
続いて午前1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。
その離陸2分後の午前1時47分、原子爆弾の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、更に2分後の午前1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・エビル号)の各1機のB-29も飛び立った。
即ちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内3機が広島上空へ向かっていたことになる。
テニアン島から目標の広島市までは約7時間の飛行で到達できる。
[編集] 四国上空
午前6時30分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐、兵器担当補佐モーリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らが爆弾倉に入り、リトルボーイの起爆装置から緑色のプラグ(安全)を抜き、赤色のプラグ(点火)を装填した。
作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。機長は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。
この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープにブリップ(輝点。正体不明の飛翔体)を発見した。通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップがIFFトランスポンダ(敵味方識別装置)に応答しないと報告した。エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度2,000m前後の低空飛行から急上昇し、午前7時30分に8,700mまで高度を上げた。
さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、射撃位置の占有に失敗した[4]。
エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開した。
[編集] 広島
午前7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレート・フラッシュ号である。イーザリー少佐は上空が快晴であることを確認し、四国沖上空のエノラ・ゲイ号に作戦可能の連絡を入れた。「天候晴れ、歴史的爆撃作戦に支障なし。視界10マイル、高度15,000フィートの雲量12分の1」この時点で、投下目標は広島に絞られた。原子爆弾の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。なおこの観測機は日本側も捕捉しており午前7時9分に警戒警報が発令されている。
午前7時31分、このB-29はそのまま広島上空を通過離脱していたため、警戒警報は解除された。
午前8時6分、再度2機のB-29が捕捉された。ラジオはこれを放送したが、これらの米軍機は偵察のためであるとした。一般市民らも大したことは無いだろうと考えて、別段パニックは起きなかった。中国軍管区司令部も警戒警報発令の指示は出さなかった[5]。
午前8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。
午前8時10分、日本側では3機のB-29が広島県に侵入したことを捕捉した。数分後、広島の中国軍管区司令部は警報発令の準備指示する。その間、エノラ・ゲイ号は既に広島市上空に到達していた。高度は31,600ft(9,632m)。まず原子爆弾による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた。青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている[6]。
午前8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達した事を、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度等の入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央に流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。
午前8時13分、日本側では再度広島に警戒警報が発令された。「中国軍管区情報、敵大型機3機が西条上空を西進しつつあり、厳重な警報を要す」
午前8時15分17秒、核爆弾リトルボーイが自動投下された。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避ける為にバンクして進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を激しい勢いで急降下させ、キャビンは一時無重力状態になった。
リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした。
(正確な爆心地は、相生橋よりやや東南の島病院上空と戦後に分析された[7]。)
[編集] 帰島
原爆の爆風はエノラ・ゲイにも襲い掛かった。エノラ・ゲイはひどく揺さぶられ、ティベッツは日本軍の高射砲による対空射撃と勘違いして「高射砲だ!」と叫び、フィアビーも「くそ! 撃ってきたぞ!」と叫んだ。しかし間もなく核爆発の衝撃波であると気付いた[要出典]。
午後2時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還した。12人の搭乗員は出迎えた数百人の将兵らに祝福された。戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された。
原爆投下時、撮影機はカラーフィルムで撮影していたが、テニアン島に帰還後、現像に失敗したためにその記録は失われた。そのため、爆発から約3分後に別機の科学調査リーダー、ハロルド・アグニューにより8mmカメラによって撮影されたキノコ雲の映像が、世界初の都市への原爆投下を捕らえた唯一の映像となっている。
[編集] 原子爆弾の威力
広島原爆は約50キログラムのウラン235が搭載されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。爆発で放出されたエネルギーは63兆ジュール、TNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。エネルギーは爆風(衝撃波)・熱線・放射線となって放出され、それぞれの割合は50パーセント・35パーセント・15パーセントであった。
なおB-29の通常爆弾最大積載量は5トンであるから、B-29の3,000機分の通常爆弾が一度に投下されたことに相当する。比較として東京大空襲(1945年3月10日)の攻撃B-29は344機であるから投下された爆弾(焼夷弾)は総計2,000トンであった。すなわち、広島原爆(15,000トン)はこの東京大空襲の約8倍相当の規模のエネルギーを、東京の十分の一程度の都市の上に一時に投下/放出したことになる。
[編集] 爆風
爆発の瞬間の爆発点の気圧は数十万気圧に達し、これが爆風を発生させた。
爆心地における風速は440メートル/秒以上と推定されている。これは音速349メートル/秒[8]を超える超音速の爆風であり、前面に衝撃波を伴い爆心地の一般家屋の殆どを破壊した。
比較するとこの風速は、強い台風の中心風速の10倍である。そして、爆風のエネルギーは風速の3乗に比例する[9]。すなわち、原子爆弾の爆風は、エネルギー比では台風の暴風エネルギーの1,000倍の爆風であった。
また爆心地における爆風圧は350万パスカルに達した(1平方メートルあたりの加重が35トンとなる)。半径1キロメートル圏でも100万パスカルである。耐震設計の鉄筋コンクリート建築以外の建造物は、爆風圧に耐え切れずに全壊した。半径2キロメートル圏で30万パスカルとなり、この圏内の木造家屋は全壊した。
[編集] 熱線
核分裂で出現した火球の表面温度は数千度に達した。即ち、地上から数百メートルの地点に第二の太陽が現れた事に相当する。 火球から放出された熱線エネルギーは22兆ジュール(5.3兆カロリー)である。熱線は赤外線として、爆発後約3秒間に大量に放出された。地表に作用した熱線のエネルギー量は距離の2乗に反比例する。地表で受けたエネルギーは、爆心地では平方センチあたり100カロリー、500メートル圏で56カロリー、1キロメートル圏で23カロリーであった。
比較すると、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当する。
このような極めて大量の熱量が短期間に照射される特徴から、熱が拡散されず、照射を受けた表面は直ちに高温となった。爆心地付近の地表は3,000~4,000℃に達した。屋根瓦は表面が溶けて泡立ち、また表面が高温となった木造家屋は自然発火した。
[編集] 放射線
核分裂反応により大量のアルファ線・ベータ線・ガンマ線・中性子線が生成され、地表には透過力が強いガンマ線と中性子線が到達した。さらに地表では中性子線により放射化され、誘導放射能が生成された。
爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチあたり高速中性子が1兆2千億個、熱中性子が9兆個と推定されている。
原爆投下後、広島赤十字病院の地下に残っていた未使用のレントゲンフィルムが放射線によって全て感光していたため、広島へ落とされた新型の爆弾は原子爆弾だと決定付ける証拠となった。
[編集] 黒い雨
原子爆弾の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流に吹き上げられた粉塵が上空で拡散したため、あのように特徴的なキノコ形になったものと考えられる。
低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。雲は急速に上昇し、湿った熱気は上空で冷やされ雨を降らせた。この雨は爆風が舞い上げた大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒で大粒の雨粒が降り注いだ。この雨を黒い雨という。
当日の上空では南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動し、黒い雨の降雨領域は市内から北北西方向へ伸びる長径19km、短径11kmに広がった。この雨は放射性降下物を含んでいたため、雨を浴びた者を被曝させ、土壌や建築物及び河川を放射能で汚染した。原爆の子の像のモデルの佐々木禎子もそれを浴びたことで被曝している。
[編集] 原爆投下の背景と経緯
広島原爆への道程は6年前のルーズベルト大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、開発された原爆の目標として広島が決定されたのは1945年6月であった。その間には原爆投下を阻止しようと行動した人の存在もあった。以下にその背景と経緯の詳細を示す。
[編集] ルーズベルトの決断
1939年、ナチスから逃れてアメリカに亡命した物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アメリカが原子爆弾開発を行うことを大統領へ進言する手紙を作成した。署名者には同じ亡命科学者の著名なアインシュタインの名を借りた。この手紙は10月11日に送り届けられた。その手紙は当時のウラン鉱石の埋蔵地の位置も示していた。ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカのコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえるように提言している。ルーズベルト第32代アメリカ合衆国大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった。なお1939年9月1日には第二次世界大戦が勃発している。
2年経過した1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・フリッシュ(Otto Robert Frisch)とルドルフ・パイエルスがウラン原子爆弾作成のために必要なウランの臨界量の理論計算と、ウラン原子爆弾の基本原理をレポートにまとめ、MAUD委員会(MAUD Committee, イギリス原子爆弾開発委員会)に報告した(Frisch-Peierls memorandum)。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。1941年10月、このレポートの内容を知ったルーズベルト大統領は原子爆弾の開発に踏み切ることを決断する。
1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画(DSM計画)を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。開発総責任者はオッペンハイマー。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造の目途がついた。
1944年9月18日、ルーズベルト米国大統領とチャーチルイギリス首相は、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定であり、その中では日本への原子爆弾投下の意志が示されていた。その他、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。(ハイドパーク協定)
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下実行部隊の第509混成部隊の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機及び部隊総員1767人)、ユタ州ウェンドバー基地で原爆投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原爆投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動した。
[編集] 原子爆弾投下阻止の試みと挫折
理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子で分裂すると予言し、同年4月25日には、核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
第二次世界大戦が勃発し、ナチスのヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。ここで彼は、米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾の出現による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
1944年5月16日にボーアはチャーチルと会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルトとも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌年1945年4月25日にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった。
また別の科学者の動きとしては、1944年7月にアーサー・コンプトン(シカゴ冶金研究所)が発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめている。そのなかで、原子力は平和利用の開発に注力すべきで、原子爆弾の都市破壊への利用をすべきでないと提言している。しかしこの提言も生かされることはなかった。
さらにドイツ降伏後の1945年5月28日には、米国に核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、バーンズ長官に原子爆弾使用の反対を訴えている。シラードは、7月17日にも原子爆弾使用反対の書簡を科学者たちと連名で提出したが、流れを変えることはできなかった。
1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、エウゲニー・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会に提出した。その中でフランクは、社会倫理的に原爆投下に反対し、原子爆弾の威力を各国の前でデモンストレーション(砂漠か無人島にて)で示すことにより戦争終結の目的が果たせると提案しているが、この提案は政府に拒絶された。またフランクは同レポートで核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。
軍人としては、ヨーロッパ戦線を勝ち抜いたアイゼンハワー将軍が、対日戦の勝利にはもはや原子爆弾の実戦使用は不必要であることを1945年7月20日にトルーマン大統領に進言しており[10]、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、同様に反対する意見を表明している。また政府側近でも、バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することには反対するものもいた。
しかし結局、これら一連の原子爆弾投下阻止の試みが、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領の決意を動かすことはなかった。
[編集] 原子爆弾投下都市の選択
1945年4月12日のルーズベルトの急死により、トルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策の遺志を継いだトルーマンには、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残されていた。原子爆弾を投下する都市の選択は、1945年4月27日に開かれた米軍の目標検討委員会第1回会議にて定められた選定基準により、まず17地域が「研究対象」に選ばれた。
選定基準の要約は以下の通り。
- 市街地が約4.8キロメートル以上の直径を持つこと、また市街地周辺にも居住地が広がっていること。
- 投下目標は、東京から長崎の間に位置している都市とすること。
- 目標とする都市が、高度な戦略的価値を持つこと。
この日に研究対象として選ばれた17都市及び地点は以下の通り。
この時、上記17都市及び地点の内、既に空爆で破壊した都市は除外するべしとされた。
「研究」の中で、投下目標は原子爆弾の「爆風の効果」が分かるような地勢を備えるべしとの条件が加わり、1945年5月11日の目標検討委員会第2回会議では、投下目標は京都・広島・横浜・小倉の4都市に絞り込まれた。その後、「アメリカと親しい日本」をつくる上で「千数百年の長い歴史があり、価値がある文化財まで破壊する可能性があり、それらが数多く点在する京都への投下は、戦後の国民の反感が大きすぎる」との配慮から、京都への原爆投下は問題であるとして、京都市が除外されて新潟市が加えられた。ただし、京都盆地に位置し、原爆の効果を確認するには最適の京都への投下を強く求める将校、科学者も多く存在した。
- 1945年5月時点での投下目標
- 京都・広島・横浜・小倉 → 広島・横浜・小倉・新潟
1945年5月28日、これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原子爆弾のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなる。有名な京都の場合だが、1945年1・3・5月と4月に2回、計5回の空襲に見舞われている(尚、1944年11月以降、カーチス・ルメイ陸軍少将が考案した本土への無差別戦略爆撃は、1945年3月の東京大空襲(3月10日)・大阪大空襲(3月14日)・名古屋大空襲(3月19日)を頂点として、その後地方都市にも空爆の作戦範囲を広げていた)。
1945年6月14日に京都・横浜を目標から外し、その後新潟も外され、長崎が再登場した。最終的な投下目標は、広島・小倉・長崎に決定された。なお、6月1日の会議では原子爆弾の投下目標地点イメージについて、周囲に労働者の家屋が広がっている軍需工場地帯で、原子爆弾投下の事前警告は行わないことが決定されている。[11]
- 最終決定投下目標
- 広島・小倉・長崎
1945年7月25日、トルーマン大統領は原子爆弾投下の命令を発令した。広島・小倉・長崎・新潟の何れかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下するべしとした。さらに8月2日により具体的な原子爆弾投下作戦命令書「野戦命令第13号」が発令された。その攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域(照準点を相生橋とする)」、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」である。しかしこの命令直後の数日間は台風8号の影響で天候不順のため作戦実行を避けられ、太平洋高気圧が張り出して天候が回復した8月6日が作戦決行日と最終決定された。
[編集] 模擬原子爆弾「パンプキン」の投下練習
一方1945年7月20日以降、第509混成部隊ではファットマンと同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたもの「パンプキン」(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)の投下練習が繰り返し行われていた。すなわち原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の決められた都市まで飛行し、目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
このパンプキン練習作戦は、7月24日、7月26日、7月29日、8月8日、8月14日と終戦寸前まで行われた。
[編集] 原爆の輸送
また並行して完成した原子爆弾部品の輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。また陸軍航空隊のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。原子爆弾の最終組立はテニアン島の基地ですべて極秘に行われた。(なお、このインディアナポリスは帰路の7月30日、フィリピン海で橋本以行海軍中佐指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の雷撃により撃沈されている。[12])
[編集] 広島市の状況
[編集] 略史と特徴
広島市は戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州に城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地と発展していた。
また、広島高等師範学校・広島女子高等師範学校・広島文理科大学・広島工業専門学校・広島高等学校を有する学都でもあった。特に広島高等師範学校は東京高等師範学校に次ぐ位置にて、西日本の教育界に影響を与える人材を輩出していた。
また、広島には軍都の側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営が置かれ、また臨時帝国議会も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多くおかれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。また宇品港におかれた陸軍船舶輸送司令部は兵站上の重要な拠点であった。
被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、(1)居住一般市民約29万人、(2)軍関係約4万人、および(3)市外から市中に用あって入った者約2万人である。
[編集] 中島地区
現在の広島の地図から名前が消えた中島地区(中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町)は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また広島の第一の歓楽街・繁華街であった。街には下町の長閑な暮らしがあり、映画館など娯楽施設もあった。木造低層家屋が立ち並んでいたこの地区は爆心から500メートル以内の爆心地にあり、原子爆弾により街は完全に壊滅している。唯一、RC建築の燃料会館(旧大正屋呉服店)が爆風に耐え残った。
戦後、この地区は広島平和記念公園として生まれ変わることになる。燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のレストハウスとなり現在も残っている。
[編集] 原子爆弾投下直前
8月6日は月曜、ただし当時は週末の休みは無く、朝は午前8時が勤務開始である。大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生(1万数千人)たちは、三菱重工や東洋工業を始めとする数十の軍需工場での作業となった。
また建物疎開には、中学下級生(数千人)および一般市民の勤労奉仕隊(母親たち)や病気等の故あって徴兵されなかった男子等が参加した。動員は市内の他、近隣の農村からも行われた。建物疎開とは、空襲による類焼を食い止めるために建物の間引きを行う作業である。建物の破壊は軍が行い、瓦礫の処理を奉仕隊が行った。当然、青空の下の作業である。彼等は原子爆弾の熱線の直接照射を大量に浴びることになる(後述)。
尋常小学校の上級生の児童は昭和20年4月に行われた集団疎開で市を離れたものが多かったが、下級生の児童は市内に留まっていた。児童は各地区の寺子屋学校での修学となっていた。また、就学以前の幼児は自宅に留まっていた。
8月3日、4日と雨が降ったが、5日以降は高気圧に覆われて天候は回復した。
8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、その度に市民は防空壕に避難したため、寝不足の市民も多かった。この日、市街中心部では米の配給が行なわれ、市民は久しぶりの米飯の食卓を囲んだ。
8月6日の朝の気温は26.7度、湿度80%、気圧1018ヘクトパスカルであった。北北東の風約1メートル/秒が吹き、雲量8~9であったが、薄雲であり視界は良好だった。 午前7時9分の空襲警報で市民は一旦は防空壕に隠れたものの、7時31分には警報解除されたため、外へ出て一日の活動を開始していた。
[編集] 原子爆弾投下直後
[編集] 爆心地
爆心地500m圏内では閃光と衝撃波が殆ど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊した。木造建築は全数が全壊した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破した。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。
また強力な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発した。苦悶の姿態の形状を示す「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。
丁度、爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま、黒焦げの遺骸を乗せて慣性力で暫く走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士[13]もいた。
この地域での生存者は極僅かであるため、状況の手掛りは少ないが、爆発で飛ばされて失神し、それから覚めた直後は一寸先も見えない闇の世界であった。原子雲と爆風で舞い上げられた大量の粉塵が太陽の光を完全に遮断したためである。その闇の中で、高温に熱せられた木造建築等の発火が始まっていた。
この爆心地直下の圏内の生存者で広く知られているのが、核爆発の瞬間には燃料会館の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた男性(昭和57年6月死去)である。燃料会館は爆心直下の島病院や産業奨励館の直近170mに位置した爆心地であった。[14]
[編集] 全壊全焼圏内
爆心地1キロメートル地点から見た爆心点は上空31度、2キロメートル地点で17度の角度となる。したがって野外にあっても運良く塀や建物等の遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受けた体の部位が一瞬にして重度の火傷を負った。野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生等は隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校も多かった。また彼らは熱線照射の直後の爆風(核反応の熱で急速に膨張した高温高速の空気が作る衝撃)で数メートル~十数メートル吹き飛ばされ、地面や構造物に強く叩きつけられて昏倒した。さらにこの爆風は屋外の被爆者の衣類を剥ぎ取り、ほとんどは裸となった、そして、爆風は火傷を負った表皮をも皮膚組織から剥ぎ取った。昏倒から覚めた被爆者は自分の腕の皮膚が剥がれて垂れ下がり、爪のところでようやくつながっていることを知る。背中全体の皮膚がはがれ、腰からぶらさがっている者もいた。強い衝撃で眼球が眼窩から飛び出した者、腸が腹腔から飛び出して苦悶する者もいた。
建物の内部にいた者は熱線の直射は避けられたものの、放射線は防げなかった。次の瞬間に襲った爆風により、爆心地から2キロメートル圏内の木造家屋は一瞬にして倒壊したため、家屋の瓦礫の下に閉じ込められた。また、鉄筋コンクリートの建物などでは爆風で窓から吹き飛ばされたガラスの破片が頭や体につきささり、そのままの状態で避難の列に加わる者も多かった。自力で脱出した者、もしくは他者に助け出された者の他は、熱線の照射による発火で起こった家屋の火災に巻き込まれて、生きながら焼かれて死亡した。火災は同時多発に発生して大火となったため、家屋の下から助けを求める家族・知人の声を聞きながらもやむなく見捨てて逃げるしかできなかった者も多かった。そして逃れた者も家屋倒壊の際に様々な外傷を受けていた。彼らは水と安全なところを求め、市内を流れる川へ避難をはじめた。
火災は市内中心部の半径2キロメートルに集中していた家屋密集地の全域に広がった。大火による大量の熱気は強い上昇気流を生じ、それは周辺部から中心への強風を生み出し、火災旋風を起こした。風速は次第に強くなり18メートル/秒に達し、さらに旋風が生じて市北部を吹き荒れた。火災は半径2キロメートル以内の全ての家屋、半径3キロメートル以内の9割の家屋を焼失させた。
[編集] 被爆救護活動
広島市の行政機関(市役所・県庁他)は市の中央に集中し、そこは爆心地の近傍(1,500メートル以内)であったため、家屋は全壊全焼し、職員も多くが死傷し、被災直後は組織的な能力を失った。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も同様に機能を喪失した。
市内の爆心地からやや遠方(4キロメートル)にあった宇品港の陸軍船舶指令部隊が被害が軽かった為、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となった。船舶司令部は直ちに消火艇を派遣して大火災を起こした河岸部の消火活動を始めた。特に河岸部の病院施設は火災鎮圧まで消火し、そこを救護活動の橋頭堡とした。
陸軍船舶練習部に収容し手当てした被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。また原子爆弾の被災者は広島湾に浮かぶ似島の検疫所にも多く送られている。その数は一万人にのぼったという。この船舶練習部以外にも市内各所に計11ヶ所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は最大53ヶ所まで増加した。
市内の医療関係者は9割近くが罹災したため、救援に周辺の地域(県外含む)から多くの医療救護班が入った。8月・9月の救護所収容の累計は十万人を超え、外来治療者は二十万人を超えた。 [15]
[編集] 被爆直後の被害調査報告と報道
[編集] 第一報 8月6日
午前8時過ぎ、エノラ・ゲイが広島市街を目視確認する直前、広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府に、敵大型機(あるいはB-29)3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令された。陸軍中国軍管区司令部にも同様の電話連絡があり、8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令された。続いて海軍の中野探照燈台・板城探照燈台や陸軍の中国軍管区司令部から呉鎮守府に続報があり、呉地区に空襲警報が発令された。高射砲陣地が戦闘配置し、対空戦闘用意の態勢に移行して高度標定機による敵機観測と高射砲弾の信管調定を開始した。また呉鎮守府飛渡瀬砲台では155mm高角砲がエノラ・ゲイを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた。
中国軍管区司令部の地下壕にある作戦室の指揮連絡室では、隣の作戦室からの伝票「八・一三、広島、山口、ケ・ハ」を受け取り、学徒動員の恵美(旧姓・西田)敏枝が宇品高射砲大隊と吉島飛行場に、荒木(旧姓・板村)克子が四国軍管区司令部(善通寺)に、岡(旧姓・大倉)ヨシエが電話交換機を使って各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとした瞬間、原子爆弾が炸裂した(中国軍管区司令部からの警戒警報は各方面に伝達されることはなかった)。
広島中央放送局の流川演奏所では、古田正信放送員が呉鎮守府が発令した警報のメモを持って第2演奏室(スタジオ)に入った。古田が原放送所(放送休止時間のため停波中)に警報発令の合図を送り、放送所の送信機が始動した直後に原子爆弾が炸裂、演奏所と放送所を結ぶ中継線が断線したため警報は放送されなかった。広島放送局では約40名の職員が犠牲となった。[16]
広島城内にある中国軍管区司令部の地下壕は半地下式のコンクリート耐爆シェルターであったため、熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって多くの負傷者を出した。荒木と岡は一旦壕の外に脱出したが再び地下壕に戻り、荒木は四国軍管区司令部からの電話連絡を受け、岡は西部軍管区司令部(福岡)と歩兵第41連隊(福山連隊)司令部に、広島空襲の第一報を電話で伝えた。
[編集] NHK原放送所
上記のごく一部を除いてあらゆる通信が途絶した広島は、被害状況報告や救援要請を行う手段を失った。しかし、広島市郊外にあるNHK広島放送局原放送所の回線は確保されていた。原放送所は同盟通信社広島支社の緊急避難先となっていたが、偶然郊外の同僚宅にいて無事だった同盟通信記者の中村敏が午前11時30分頃(16時の説もある)、同盟通信社岡山支社に「6日午前8時16分頃、敵の大型機1機ないし2機、広島上空に飛来し、特殊爆弾を投下、広島市は全滅した。死者およそ17万人の損害を受けた」[17]との第一報を送った。この第一報は同盟通信岡山支社経由で東京本社に届けられ、昼過ぎには大本営にも転送された。
[編集] 日本政府の声明 8月7日
6日午前8時30分頃、呉鎮守府が大本営海軍部に広島が空襲を受けて壊滅した旨を報告している。続いて午前10時頃には第2総軍が船舶司令部を通じて大本営陸軍部に報告した。加えて、昼過ぎには同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を受けた大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには「広島に原子爆弾が投下された可能性がある」との恐るべき結論が出された。夕刻には蓮沼蕃侍従武官長が昭和天皇に「広島市が全滅」と上奏した。上奏を受けた昭和天皇は顔を曇らせたという。
大本営は翌7日に原子爆弾対策委員会を開催し、同日午後3時30分に報道発表をだした。
- 昨8月6日、広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
- 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり
この報道発表を受けて新聞各社は広島に新型爆弾が投下された旨を一面トップで一斉に報道した。
[編集] 米国政府の声明 8月7日
5日深夜(米東部標準時 - EST。日本時間7日未明)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のホワイトハウスにてハリー・S・トルーマン米大統領の名前で次のような内容の声明を発表した。
このように原子爆弾の完成と広島空襲に用いた事を全世界に知らしめ、未だ降伏の意思を示さない日本に恐るべき警告をした。この声明は日本政府や大本営にとって広島が核攻撃を受けたのではないかという危惧が現実のものとなった事を意味した。呉鎮守府司令部もこの声明を傍受した。
[編集] 調査 8月6日~10日
火勢がやや収まってきた6日午後5時30分、呉鎮守府の呉工廠調査班が入市調査を開始し、翌7日までには熱線や爆風による効果及び正確な爆心地を解析し、8日には大本営海軍部調査団と合同で『8月6日廣島空襲被害状況報告書』にて原子爆弾の空中爆発による攻撃であると断定した。また同日、帝国陸軍参謀本部第二部長の有末精三中将を団長とした大本営調査団[18]9名が、陸軍軍医学校の教官を中心とする陸軍省広島災害調査班と共に空路現地入りした。
9日、陸軍省広島災害調査班が日本赤十字広島赤十字病院の地下室でレントゲンフィルムが全て感光していた事実を発見し、直ちに陸軍軍医学校に放射線専門家の派遣を要請している。これを受けた陸軍軍医学校は、陸軍軍医学校レントゲン教官である御園生圭輔軍医及び理化学研究所の研究者玉木英彦研究員・村地孝一研究員・木村一治研究員らを派遣して残留放射線測定や血液検査等を行った。この結果、土壌中からストロンチウム92やセシウム137が大量に検出され、被爆者に白血球減少症が多い事が分かった。後に遺体病理解剖にて被爆者を蝕む放射線がα線、γ線、β線、中性子線である事が判明した。
10日午前10時、広島陸軍補給廠にて第2総軍や陸軍船舶練習部及び海軍呉鎮守府等の軍関係者や目撃者を交えた陸海軍合同検討会を開催した結果は、
- (イ)彈種、通常ノ爆薬又ハ焼夷剤ニ非ズ 原子爆彈又ハ威力之ト同等ノ特殊爆彈ナルモノト認ム
- (ロ)爆發位置 護国神社南方三〇〇米、高度五五〇米
- (ハ)爆圧、爆心地上ニ於テ六粁/平方糎程度ト推定スルモ 尚検討ヲ要ス
- (ニ)火傷原因 光線ノ影響ナルモ尚β線及X線ノ影響アルベシ、光線ノ持續時間ハ瞬間ニ非ザルモノノ如シ
- (ホ)火災ノ原因 熱線ニ依り引火シ易キ物質(藁、黒幕等)發火シ火災ノ原因トナルコトアリ
- (ヘ)投彈法 必シモ落下傘ヲ伴ハズ
以上を直ちに政府に報告した。
[編集] 抗議声明
日本政府は抗議文をスイス政府を通じて米国政府に提出し、ラジオ・トウキョウから欧米系捕虜を用いた英語放送で広島の状況を伝えた。
本月六日米國航空機は廣島市の市街地區に對し新型爆彈を投下し瞬時にして多數の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり。
廣島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非らず、本件爆撃に關する聲明において米國大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆彈は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて廣き範圍に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆彈の性能については米國側においてもすでに承知してをるところなり。また実際の被害状況に徴するも被害地域は廣範圍にわたり右地域内にあるものは交戰者、非交戰者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範圍の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり。
聊々交戰者は害敵手段の選擇につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を與ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戰時國際法の根本原則にして、それぞれ陸戰の法規慣例に關する條約附属書、陸戰の法規慣例に關する規則第二十二條、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり[19]、米國政府は今次世界の戰乱勃発以來再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戰争方法の使用は文明社會の與論により不法とせられをれりとし、相手國側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨聲明したるが、米國が今回使用したる本件爆彈は、その性能の無差別かつ惨虐性において從來かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり。
米國は國際法および人道の根本原則を無視して、すでに廣範圍にわたり帝國の諸都市に對して無差別爆撃を実施し來り多數の老幼婦女子を殺傷し神社佛閣學校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり。
而していまや新奇にして、かつ從來のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆彈を使用せるは人類文化に對する新たなる罪惡なり。帝國政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米國政府を糾彈すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す。
[編集] 原爆被害報道、本格的に始まる
広島や長崎を襲った正体が原子爆弾であると確認した軍部は緘口令を諦めて報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原子爆弾であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。SF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた原子爆弾が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民はここに初めて知ったのである[20]。
なお、この原爆報道により、パニックに陥った新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出した。これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報も流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認する一幕もあった。
[編集] 終戦の詔勅、原爆報道など
8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原子爆弾の解説を行った。
8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦闘員を殺害傷害し、その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」と詔があった。
正確な犠牲者数等はGHQ占領下では報道統制され、日本が主権を回復した1952年に始めて報道された。
[編集] 被爆者
詳細は被爆者を参照
これより、刺激の強い写真があります。
爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も6日目までに約半数が死亡、次の6日間でさらに25パーセントが死亡していった。
11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。
なお、原爆が投下された際に広島市内には米軍捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。[21]
[編集] 短期的影響
[編集] 熱傷
原子爆弾から照射された熱線は強烈な赤外線・紫外線・β線を含んでおり、爆心地から1キロメートル以内では5度の重い熱傷を生じ表皮は炭化した。熱線による被害は3.5キロメートルの距離にまで及んだ。また熱線にて発火した家屋の火災による第2次熱傷を受けたものもいた。爆心地から1キロメートル以内で屋外被爆したものは重い熱傷のため、7日間で90パーセント以上が死亡している。爆心から20キロメートル離れた可部地区や大野地区では、戸外に出ていた人は熱傷を負わずとも「温かい」といった温感が観測された。
[編集] 外傷
原子爆弾の爆風により破壊された建物のガラスや木片等が散弾状となり全身に突き刺さり重傷を負ったものが続出した。戦後何十年も経過した後に体内からこのときのガラス片が見つかるといった例もあった。
また、爆風により人間自体が吹き飛ばされて構造物等に直撃し全身的な打撲傷を負ったり、体への強い衝撃により眼球や内臓が体外に飛び出すといった状態を呈したものもいた。
このような全身的な被害をうけたものは大半が死亡した。
[編集] 放射能症
爆心地における放射線量は、103シーベルト(ガンマ線)、141シーベルト(中性子線)、また爆心地500メートル地点では、28シーベルト(ガンマ線)、31.5シーベルト(中性子線)と推定されている。すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、即日死ないしは一ヶ月以内に大半が死亡した。また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した(参照:人体に対する放射線の影響)。
急性放射能症は、細胞分裂の周期が短い細胞よりなる造血組織・生殖組織・腸管組織が傷害を受けやすい。
症状は、悪心・嘔吐・食思不振・下痢・発熱から始まる。さらに被爆から2週間後ごろに放射能症に特徴的な脱毛が始まる。20日過ぎ頃より皮下出血斑(点状出血)、口腔喉頭病巣を生じる。また、大量の放射線により骨髄・リンパ腺が破壊され、白血球・血小板の減少など血液障害を起こす。
なお、6シーベルト以上の放射線を浴びた被爆者は、腸管障害(消化管組織の破壊により消化吸収不能となる)により、一ヶ月以内に大半が死亡した。
[編集] 二次被爆
大量の中性子線は誘導放射能を生み、それにより被曝したのが二次被爆者である。原子爆弾投下の直後に爆心地へ入市し救援活動等で数時間滞在したものは0.2シーベルト、翌日に入市し同様に活動したものは0.1シーベルトの被曝をした。
さらにフォールアウトにより被曝した二次被爆者が発生した。特に市北西部の19キロメートル×11キロメートルの楕円形の領域において黒い雨が1時間以上強く降っており、雨に当たったり雨で放射能汚染されたものに触れた住民は被曝した。被爆者の収容・救護にあたった者も放射能汚染された衣類や頭髪に触れて被曝する例が多かった。当時は放射能汚染の危険性を知る者は物理学者や軍関係者、医療関係者といったごく限られた者に限定されたため、除染が殆ど実施されなかったことも影響した。
[編集] 長期的影響
[編集] 熱傷・ケロイド
爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。しかし、3~4ヶ月経過して後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起し、いわゆるケロイドを生じた。ケロイドは外科手術により切除を試みても、しばしば再発した。特に年頃の女性被爆者は心に深い傷を刻み込まれた。彼女等は「原爆乙女」と呼ばれた。
[編集] 放射線症
被爆して大量の放射線を浴びた者は、白血病の発症率が増加した。発症の頂点は1951年、1952年であり、その後は徐々に発生率が下がる。広島被爆者では慢性骨髄性白血病が多く、受けた放射線の被曝線量の増加にほぼ比例する形で白血病発生率が増加している。また、若年層ほど白血病の発症時期が早かった。発症すると、白血球が異常に増加し、逆に赤血球等の他の血液細胞が減少して障害をまねく。さらに白血球の機能も失っていく。
1950年代は白血病には治療法がまだなく代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子は、わずか12才で白血病のために亡くなっている。
以降は癌の発症が増加した。多臓器に繰り返し発症する例がしばしば見られ、被爆者を長期間に渡り苦しめている。これら被爆者の遺伝子染色体には異常が見られることが多く、放射線による遺伝子破壊が癌を招いている可能性も指摘されている[22]。
[編集] 胎内被爆
原子爆弾が投下された当時、母親の胎内にいて被爆したことを、胎内被爆という。胎内被爆により、小頭症を発症する者がいた。これは同年齢の者の標準に比べて、頭囲が標準偏差の2倍以上小さい場合を言う。諸説あるが、被爆時に胎齢3週~17週の胎内被爆者に多く発症した。小頭のほか、身体や脳に発育遅延が認められ、成人前に死亡した例もある。一般的に「原爆小頭症」と言われている。「最も若い被爆者」と言われるが、現在は皆が還暦を迎える年齢になり、彼らの肉親も相当の年齢に達しており、将来的な不安も多々挙げられている。
[編集] 精神的影響
原爆の手記を分析した結果によると、3人に1人が罪の意識(自分だけが助かった、他者を助けられなかった、水を求めている人に応えてあげられなかった等々)を持っていることが判明した(一橋大石田による調査)。このような自責の念により被爆者は肉体的苦痛のみならず、精神的にも苛まれ続けたのである(参照:サバイバーズ・ギルト、心的外傷後ストレス障害)。
[編集] 社会的影響
これら上述してきた事象、被爆者の苦しみ、破壞し尽くされた都市の惨状は、戦後の日本においては民間の反核運動のみならず、政府レベルにおいても非核三原則などを生み出す要因の一つとなり、さらには世界的な反核運動の原動力の一つともなった[23]。
また、原子力発電、原子力船(むつ)などといった原子力の利用そのものへの強い拒否的な感情、さらに言うならば原子力、核物質というそれ自体に対するある種の恐怖感と不安感を、大衆に抱かせる一因となった。
[編集] その後の広島
[編集] 終戦
- 3日後の8月9日、長崎市に再び原子爆弾が投下され、数万人が死亡した。これは広島に投下されたウラニウム型と異なるプルトニウム型(ファットマン)であった。同日、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本へ宣戦布告し、満州へ侵攻を開始する。またこの日、広島電鉄市内線の一部区間が運行を再開している。
- 8月10日、大阪から来たカメラマン宮武甫が被爆の惨状を撮影する。
- 8月14日、御前会議においてポツダム宣言受諾が決定され、日本政府は連合国に受諾を伝える。
- 8月15日、玉音放送。国民への終戦の告知。
- 8月28日、連合国占領軍上陸。
終戦とGHQ支配により、軍は武装解除し、兵の復員が開始された。広島の被爆者救護を担ってきた暁部隊も解体し、救護活動は自治体に移行された。しかし戦時災害保護法(1942年制定)の規定により救護期限は2ヶ月と定められていたため、10月上旬に救護所は閉鎖されてしまう。 - 9月8日、米国による原子爆弾災害調査が開始される。活動は1947年発足の原爆傷害調査委員会(ABCC)の母体、また後の放射線影響研究所となる。
- 9月19日、朝日新聞派遣のカメラマン松本榮一が被害の様子を撮影する。
- 9月19日、GHQよりプレスコード発令。原子爆弾被害に関する報道は禁止される。
- 9月下旬、日本映画社により原爆被害の撮影が開始される。撮影は中途から米軍の管理下となる。映像は1946年4月に"The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki"として完成後、フィルムは米軍に没収された。[24]
[編集] 枕崎台風
詳細は枕崎台風を参照
[編集] 戦後
- 1946年
- 1月、広島市復興局が開設。しかし資金難により復興進まず。
- 1948年
- 10月、広島流川教会の牧師谷本清が渡米。15カ月間に渡り31州256都市で広島の惨状を訴える講演活動を行う。
- 1949年
- 8月6日、広島平和記念都市建設法が制定。復興への前進となる。
9月、広島市中央公民館に原爆参考資料陳列室が設置され、原爆瓦等の展示が始められる。 - 1949年
- 8月29日、ソ連がセミパラチンスク核実験場で原爆実験『ジョー1号』作戦を行う。
- 1951年
- 広島原爆傷害者更正会結成。
100m道路が平和大通りと名付けられる。ただし、この時点では単なる「荒れた広野」状態だった。 - 1952年
- 10月3日、イギリスがオーストラリアのモンテベロ諸島で初の原爆実験『ハリケーン』作戦を行う。
- 1952年
- 10月31日、アメリカがエニウェトク環礁エルゲラップ島で世界最初の水爆実験『アイヴィーマイク』作戦を行い、エルゲラップ島は消滅した。
- 1953年
- 8月12日、ソ連がセミパラチンスクで水爆実験『ジョー4号』作戦を行う。
- 1954年
- 爆心地周辺が広島平和記念公園として整備。
- 1954年
- 2月28日、アメリカがビキニ環礁ナム島で水爆実験『キャッスルブラボー』作戦を行い、日本の漁船第五福竜丸等が被曝した。原水爆禁止運動が起こる。
- 1955年
- 平和記念資料館が開設。
第1回原水爆禁止世界大会開催。
原爆乙女らが最長1年半に渡り滞米、マウントサイナイ病院においてケロイドの治療を受ける。 - 1956年
- 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成。援護法要望運動の開始。
- 1957年
- 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)が制定されたが、極めて限定的な内容。
- 1958年
- 4月、広島復興大博覧会が開催される。
原爆症で死亡した佐々木禎子をモデルにした原爆の子の像が平和記念公園内に完成。 - 1959年
- 南極条約により南極の非核化。
- 1960年
- 原爆医療法の改正。
- 1960年
- 2月23日、フランスがアルジェリアのサハラ砂漠で原爆実験を行う。
- 1961年
- この時期、米ソで核兵器の大型化競争が激化。10月30日にはソ連がノヴァヤゼムリャで人類史上最強の水爆実験(爆弾名「ツァーリ・ボンバ」、TNT換算50Mt)を行う。
- 1963年
- 部分的核実験停止条約(PTBT)の締結。大気圏内の核実験が禁止。
- 1964年
- 中国が新疆ウイグル自治区のロプノールで初の原爆実験を行う。
- 1966年
- 9月24日、フランスがファンガタウファ環礁で水爆実験を行う。
- 1966年
- 10月、中国がIRBM東風2号に核弾頭を搭載し、都市越えでロプノール核実験場に命中させる。
- 1967年
- 6月17日、中国がロプノール核実験場で水爆実験を行う。
- 1967年
- ラテンアメリカ核兵器禁止条約(トラテロルコ条約)により中南米非核化。
- 1968年
- 原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(被爆者特別措置法)が制定。
- 1970年
- 3月、核拡散防止条約(NPT)が発効。
- 1971年
- 海底非核化条約。
- 1974年
- 5月18日、インドがラジャスタン州ポカラン砂漠で原爆実験を行う。
- 1975年
- 10月31日、昭和天皇が「広島への原爆投下は遺憾には思うが、戦争中のことでありやむを得なかった」と発言。[25]
- 1980年
- 中国が最後の大気圏内核実験(原爆実験)。ロプノール周辺の放射能汚染被害深刻になる。
- 1980年代
- この頃より欧米に反原水爆の市民運動が根付く。
- 1985年
- 南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)によりオーストラリア・ニュージーランド及び南太平洋諸国の非核化。
- 1992年
- 9月、広島市議会で原爆ドームの世界遺産リスト登録を求める意見書が採択。
- 1993年
- 原爆ドームの世界遺産化をすすめる会が発足。全国で165万人の署名を集め、国会請願を行う。
- 3月、北朝鮮がNPTからの脱退を声明。のち国際圧力でなし崩しに復帰。
- 1994年
- 被爆者念願の被爆者援護法が戦後50年でようやく制定。
- 国連総会にて「核兵器使用の国際法上の違法性」に関する、国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見を要請する決議が採択される。
- 1995年
- 東南アジア非核兵器地帯条約により東南アジア非核化。
- 6月、原爆ドームが文化財保護法の国の史跡に指定される。
- 1996年
- 4月、アフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約)によりアフリカ非核化。
- 7月、国際司法裁判所は、核兵器の使用が違法であると判断を示す。[26]
- 9月、核爆発実験禁止の包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連総会で可決。
- 12月、原爆ドームが負の遺産としてユネスコの世界遺産に登録。
- 1998年
- パキスタンが原爆実験を行う。インドが水爆実験[27]を行う。
- 1999年春
- 爆心地に近い市立袋町小学校の校舎の建て替え工事にあたる壁の検査をしていたとき、壁が剥がれ落ち、そこに文字が発見された。それは被爆後、この校舎は鉄筋で立てられていたため校舎は焼け残り、被爆して怪我をした人の救援所になっていた。そこにこの学校の教師が児童の安否を調べるために壁にチョークで伝言を書いたものだったと調査で分かった。[28]
- 2002年
- 被爆者を追悼する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館。
- 2003年
- 1月10日、北朝鮮がNPT脱退を声明(未復帰)。
- 2005年
- 2月10日、北朝鮮が核保有宣言。
- 8月6日、甲子園において広島代表校が午前8時15分に備え開会式に集合した全チームと共に黙祷をささげようと計画をしていたところ、高野連の関係者が制止した。時の参事・田名部和裕は「広島のことも長崎のことも含めて、大会行事として(終戦記念日の)8月15日正午に黙祷しており、原爆の日の黙祷を全体の行事とするわけにはいかない。」と発言した。
- 2006年
- 10月9日、北朝鮮政府が“核実験を実施した”と発表。
- 2007年
- 7月、北朝鮮が核施設の稼動を停止した模様。
- 2007年
- 11月1日、エノラ・ゲイの機長であったポール・ティベッツが死去。
[編集] 広島原爆をテーマとした作品
- 各ジャンル内は出版(発表)順に並べる。
[編集] ノンフィクション
- 柳田邦男『空白の天気図』新潮文庫、1981年、ISBN 4101249016(現在は「新潮オンデマンドブックス」で刊行中/内容の一部は映像化され、江波山気象館で見ることができる)
- 堀川恵子、小笠原信之『チンチン電車と女学生』日本評論社、2005年7月、ISBN 4535584257
- 中条一雄『原爆は本当に8時15分に落ちたのか-歴史をわずかに塗り替えようとする力たち』三五館、2001年, ISBN 4883202291
[編集] 小説
- 大田洋子 『屍の街』、1946年 - ISBN 4061963287、『半人間』
- 原民喜 『壊滅の序曲』・『夏の花』・『廃墟から』、1947年 - ISBN 4101163014(青空文庫:原民喜で公開)
- 阿川弘之 『春の城』、1953年 - ISBN 4101110018
- 阿川弘之 『魔の遺産』、1953年
- 堀田善衛 『審判』、1960年 - ISBN 4480700552
- 竹西寛子 『管絃祭』、『儀式』、1963年 - ISBN 4061975595
- 井上光晴 『地の群れ』、1963年
- 高橋和巳 『憂鬱なる党派』、1965年
- いいだもも 『アメリカの英雄』、1965年
- 井伏鱒二 『黒い雨』、1966年 - ISBN 4101034060
- 福永武彦 『死の島』、1966年
- 松谷みよ子 『ふたりのイーダ』、1969年 - ISBN 4062611554
- 佐多稲子 『樹影』、1970年
- 渡辺広士 『終末伝説』、1978年
- 小田実 『HIROSHIMA』、1981年 - ISBN 4061975749
- 今西祐行 『あるハンノキの話』、1989年 - ISBN 4036501208
- 村上親康 『広島の白い空』、2007年 - ISBN 4286037088
[編集] 戯曲
[編集] 詩集
- 峠三吉 『原爆詩集』、1951年 - ISBN 425095031X - (青空文庫:峠三吉)
- 栗原貞子 『生ましめん哉』 - ISBN 4812014808
[編集] 歌集
- 正田篠枝 『さんげ』、 1947年 - ISBN 4390115677
[編集] 手記
- 長田新編 『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』 - ISBN 4003317718
- 関千枝子 『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』 - ISBN 4480022414
[編集] 随筆
- 中谷宇吉郎 『原子爆弾雑話』、1945年
- 大江健三郎 『ヒロシマ・ノート』 - ISBN 4004150272
[編集] 映画
- 今村昌平 『黒い雨』(原作:井伏鱒二)
- 新藤兼人 『原爆の子』、『さくら隊散る』
- 黒木和雄 『父と暮せば』(原作:井上ひさし)
- 吉田喜重 『鏡の女たち』
- アラン・レネ 『二十四時間の情事』(原題:Hiroshima,Mon Amour)
- 青木亮 『二重被爆』(記録映画)
- 佐々部清 『夕凪の街 桜の国』、2007年 (原作:こうの史代)
- 木下蓮三 『ピカドン』(短編アニメーション)
- スティーブン・オカザキ 『ヒロシマナガサキ』(原題「WHITE LIGHT/BLACK RAIN: the Destruction of Hiroshima and Nagasaki」,2007年,ドキュメンタリー)-2007年8月6日、HBO局にて全米放送され、話題を集めた。
[編集] 音楽
1995年から2004年にかけて「ヒロシマと音楽」実行委員会が調査したところによると、広島原爆に関する作品は1800曲以上に及ぶ。『ヒロシマと音楽』(汐文社)で作品目録を見ることができる他、平和データベースで検索することができる。下に載せたものは、そのごく一部に過ぎない。
- 作曲:クシシュトフ・ペンデレツキ 『広島の犠牲者への哀歌』[29]
- 作曲:木下航二、作詩:浅田石二 『原爆をゆるすまじ』
- 作曲:林光、作詩:原民喜 『原爆小景』
- 作曲:森脇憲三、作詩:薄田純一郎 『レクイエム「碑」』
- 作曲:遠藤雅夫、作詩:米田栄作ほか 『石の焔』
- 作曲:新実徳英、作詩:峠三吉ほか 『祈りの虹』
- 作曲:松下耕、作詩:鳥潟朋美 混声合唱組曲『風の夏』
- 作曲:黒沢吉徳、作詩:栄谷温子 混声合唱曲『消えた八月』
- 作曲・作詞:山本さとし 混声合唱曲『ヒロシマのある国で』
- 作詞・作曲・歌:野田淳子『ヒロシマ 花』(音楽センター)
- 作詞・作曲・歌:梅原司平『折り鶴』 1983年[30]
- 作詞・作曲:ZERRY (忌野清志郎) 『LONG TIME AGO』 1989年[31]
- 作詞・作曲・歌:さだまさし『広島の空』 1993年[32]
- 作曲:大木正夫 交響曲 第5番「ヒロシマ」1953年[33]
- 作詞・作曲・歌 :石井竜也〔HIROSHIMA '05〕〔イノチノチカイ〕[34]
- 作曲:三枝成彰、作詞:米田栄作 混声合唱組曲『川よ とわに美しく』
- 作曲:イングヴェイ・マルムスティーン、作詞:グラハム・ボネット 『Hirosima Mon Amour』[35]
[編集] 漫画
[編集] 童話
- 正田篠枝 『ピカッ子ちゃん』 - ISBN 4803118027
- 丸木俊・丸木位里『ピカドン』ISBN 4338010207
- 山口勇子作・四国五郎絵 『絵本 おこりじぞう』 ISBN 4323002378
- 大川悦生 『はとよひろしまの空を』 ISBN 4591061264
[編集] 絵本
- 丸木俊 『ひろしまのピカ』 ISBN 4338022019
- 那須正幹 『絵で読む広島の原爆』
- 森本順子 『My Hiroshima』
- 松谷みよ子 『ふたりのイーダ』
[編集] 写真集
- 土門拳 『ヒロシマ』、1958年
- 福島菊次郎 『ピカドン ある原爆被災者の記録』、1961年
- 土門拳 『生きているヒロシマ』、1978年
- 松重美人 『なみだのファインダー - 広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録』 - ISBN 4324071144
8月6日に撮影した唯一のカメラマン - 林重男 『爆心地ヒロシマに入る―カメラマンは何を見たか』 - ISBN 4005002080
[編集] 絵画集
- NHK広島放送局 『原爆の絵―ヒロシマの記憶』、 - ISBN 4140807520
[編集] ドキュメンタリー
- ジョン・ハーシー 『ヒロシマ』、1949年 - ISBN 4588316125
- スティーヴン・ウォーカー 『カウントダウン・ヒロシマ』、2005年 - ISBN 4152086548
- 広島テレビ放送編『碑(いしぶみ)』(1975年発行の改訂版)、2005年 - ISBN 4591087328
- 久保 安夫、中村 雅人、岩堀 政則『原爆搭載機(B29エノラ・ゲイ)「射程内ニ在リ」』1990 年 - ISBN 465114201
- 白井久夫『幻の声 ―NHK広島8月6日―』(岩波新書)、1992年 - ISBN 4004302366
- 井上恭介『ヒロシマ―壁に残された伝言』(集英社新書)、2003年 - ISBN 4087201929
[編集] TVドキュメンタリー
- 広島テレビ放送『チンチン電車と女学生 2003・夏・ヒロシマ』(2003年8月31日に日本テレビ系列で全国放映)
- NHK特集「夏服の少女たち ~広島・昭和20年8月6日~」(1988年8月6日に放送。アニメーションとドキュメンタリーのカップリング)
- TBSテレビ「ヒロシマ ~あの時、原爆投下は止められた~」(2005年8月5日)
上記の他、NHK特集・NHKスペシャルで毎年8月6日の前後を中心に関連番組が多数放送されている。(2007年には「sengo62」として企画化)
[編集] TVドラマ
- 『テレビ指定席・あしあと』(NHK総合、1961年)
- 『碑-いしぶみ-』(広島テレビ、1969年)
- 『夏の光に…』(NHK総合、1980年)
- 『黒い雨 姪の結婚』(日本テレビ系列、1983年)
- 『ふたたぴの街』(NHK総合、1986年)
- 『失われし時を求めて~ヒロシマの夢~』(NHK総合、1989年)
- 『NHKスペシャル ドキュメンタリードラマ・マミーの顔が僕は好きだ~母と子のヒロシマ~』(NHK総合、1990年)
- 『土曜ドラマ・されど、わが愛』(NHK総合、1995年)
- 『ヒロシマ 原爆投下までの4か月』(NHK総合、1996年)
- 『広島 昭和20年8月6日』(TBSテレビ系列、2005年)
- 『はだしのゲン』(フジテレビ系列、2007年)
[編集] 脚注
- ^ ヴィクターナンバー#82
- ^ 現在のテニアン島ハゴイ飛行場にあたる
- ^ この7分後に広島では空襲警報が発令されている。
- ^ (この迎撃の背景情報)日本軍戦闘機は高高度性能に劣り、ターボチャージャーや与圧キャビンを装備して成層圏を飛行する「空の要塞」B-29に対して戦闘機動を行うのは極めて困難であった。ただし、エノラ・ゲイ号に関しては尾部砲塔以外の防御火器を廃止して9,000ポンドの原子爆弾を搭載しており、鈍重で無防備な状態だった。この為、低空飛行では日本軍戦闘機や高射砲により撃墜される危険が大きかった。
- ^ 狩野信行『検証 大東亜戦争史 下巻』2005年、芙蓉書房出版、ISBN 4-8295-0360-2
- ^ この時の計測用ラジオゾンテを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、以前「原子爆弾は落下傘に付けられて投下された」と云う流説があったが誤りである。なお一部のラジオゾンデは、その後呉の日本軍が鹵獲に成功している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。
- ^ 爆発時刻については、広島市は8時15分を採用しているが、米国をはじめ海外では落下時間を考慮した8時16分が一般的である
- ^ 音速は温度に依存するため、真夏の気温30℃を想定した音速を記した
- ^ 質量M、風速V、空気の密度ρ、風があたる面積Sならば、エネルギー E = (1/2)MV2 = (1/2)ρSV3
- ^ 参照:ハリー・S・トルーマン#大統領職(『スチムソン回想録』)
- ^ BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説があるが、一般的に認められているわけではない。(『原爆投下は予告されていた!』黒木 雄司 著)
- ^ 当時回天を搭載していた伊五八潜は回天隊員から出撃許可を求められたが断って「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くがサメの餌食となった。原爆には「インディアナポリス乗員の思い出に」とチョークで記された。米艦長はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。戦後米軍は原爆輸送の機密漏洩がなかったかを疑い、橋本潜水艦長を長く尋問しているが、襲撃は偶然であった。歴史に「if」は禁物だが、もしインディアナポリスが往路に撃沈されていれば、8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。
- ^ 戦争末期の当時は成年男子の多くが徴兵されたため、路面電車の運転手を女学生も勤めていた。(堀川恵子、小笠原信之『チンチン電車と女学生』)
- ^ 被爆直後のキノコ雲の中から生存者が生還したのはまさに奇跡というほかない。この燃料会館からの脱出に成功した者は8名いたが、この男性以外の生存者の消息は現在でも不明で、大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したと考えられている。
- ^ 軍部の指導で行われた被爆者の臨床検査では白血球減少症が見られた為、L-システインを投与して症状の緩和に成功している。 - このシステイン云々の情報の出典不明
- ^ 「NHK広島放送局から被爆直後に女性の声で「大阪さん、大阪さん」とNHK大阪放送局に向けて助けを求めるラジオ放送を聞いた」という証言が多数存在する。この証言については、放送プロデューサーの白井久夫によって詳細なルポルタージュが以下の書籍にまとめられている。
白井久夫・著 『幻の声 -- NHK広島8月6日』 (岩波新書 新赤版 236) 岩波書店 1992年7月 ISBN 4-00-430236-6 - ^ 通報の内容は記憶によるため、伝聞により揺らぎがある。また、この時点で死者数の推定ができるかどうか疑問も残る。
- ^ 理化学研究所の仁科芳雄博士をはじめとする日本の原子爆弾開発計画「ニ号研究」のスタッフらを含んだ、原子物理学の専門家達であった
- ^ ハーグ陸戦協定
- ^ 原爆報道は戦後になって連合国軍最高司令官総司令部によって禁止されたのであるが、被爆直後の広島からの生々しいルポは戦時中のプロパガンダを含むにせよ資料的価値は大きい。
- ^ 米軍捕虜の存在は、当時の日本軍関係者や被爆者の証言から米国側もその事実を確認していたが、その事実を隠し米国民に公表していなかった(一説には、米国内で広島・長崎への原爆投下に対する否定的な意見や、核兵器廃絶の意見が広まることを恐れたからといわれている)。近年、日本国内において被爆体験や被爆者の名前を調査検証・保存する活動が広まり、その結果明らかにされた被爆死した米軍兵士遺族の調査活動により、米国兵士の被爆死者がいた事が米国内でも公になった。なお被爆死した米兵の遺影は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に納められている。また地方史研究家(自身も被爆者)の手によって原爆犠牲米軍人慰霊銘板が基町の陸軍中国憲兵隊司令部跡地のビルに1998年に設置された(参照:西広島タイムス)。この米軍捕虜は7月28日に広島と山口に墜落した米軍爆撃機B-24(タロア号・ロンサムレディ号・その他)の乗組員であり、憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった。なおロンサムレディ号の機長トーマス・カートライトは東京に再移送されたため無事であり、1999年に慰霊のため広島を訪れている。カーライトは回想録『爆撃機ロンサムレディー号―被爆死したアメリカ兵』(ISBN 978-4140808887)を記している。また被爆米兵は、NHK特集「爆撃機ローンサム・レディ号~広島原爆秘話~(1978)」などで報道されている。
- ^ ただ、被爆後現在まで健康である者もおり、個人差があることから、後遺障害を疑問視する向きもある。がんのメカニズムが不明な為、今後の研究が待たれる。なお、現在日本政府が行なっている被爆者医療や被爆二世などの健康調査は、米戦略爆撃調査隊の研究を引き継いだ米軍とその協力機関により、「人間モルモットたちによる軍事研究」の資料として研究活用されていることは、あまり知られていない。
- ^ その為、冷戦時代はアメリカの核の傘によって守られる格好となった日本であるが、アメリカ軍の立場から見た場合、日本国内に置いた基地に核兵器を表向きは全く持ち込む事ができないなど、自ら投下した核兵器の影響により、冷戦時代以降の極東地域での核兵器の運用において少なからぬ制限と支障を強いられる事になった。
- ^ なおこのフィルムは1967年に米国国立公文書館にコピーが収められた後パブリックドメイン扱いとなり、映像の断片が様々な報道や作品に繰り返し引用されることになる。
- ^ 訪米から帰国後の記者会見。日本記者クラブ「特記すべき記者会見」天皇・皇后記者会見 1975年10月31日
- ^ 国際司法裁判所が示した勧告的意見は以下の通り。(1)核兵器の使用・威嚇は、一般的に国際法に違反である。 (2)国の存亡の極限状況での自衛の核兵器の使用が合法か違法かは確定的結論を下せない。(3)全ての国は核軍縮する交渉を誠実に進める義務がある。核兵器はこうして裁かれた ~攻防・国際司法裁判所~(広島大学法学部西谷研究室(国際法))
- ^ 強化原爆の可能性もある
- ^ その後、この出来事はニュースで取りあげられ、さらにその年の夏、伝言を書いた教師とその児童が54年振りに再会し、話題を盛りあげた。現在この壁は、袋町小学校平和記念資料館に保存されている。この記事が現在、三省堂出版の中学2年の国語の教科書「現代の国語2」に載っている。
- ^ 52の弦楽器のための作品。彼の代表作であるとともに、トーン・クラスターの使用例として、よく引き合いに出される曲でもある。ただし作曲当初は広島とは無関係の題名であった。
- ^ 1番が広島、2番が長崎の被爆者の立場から歌っている
- ^ タイマーズのアルバム「TIMERS」(東芝、EMITOCT-11102)に収録。原発を原子爆弾に例えている。
- ^ それぞれ、1番が長崎、2番が広島の被爆者に関して歌っている
- ^ NAXOS 8.557839に収録
- ^ SRCL-6073/マキシシングル/2005.12.7「GROUND ANGEL in HIROSHIMA」に収録
- ^ アルカトラスのアルバム『ALCATRAZZ』に収録。なお、上記の「平和データベース」ではアーティスト名が間違って表記されている(グラハム・ボネットが「バネット」になっている)。イングヴェイ・マルムスティーンの日本公演では広島公演限定で演奏されることが多い。
[編集] 関連項目
- 長崎市への原子爆弾投下
- 原爆下の対局
- 原爆切手発行問題
- 広島電鉄650形電車(被爆電車)
- 原爆の子の像(佐々木禎子)
- 広島平和記念公園(平和記念資料館・原爆ドーム)
- 二重被爆
- グラウンド・ゼロ
- 脇田義信
- アメリカの戦争犯罪
[編集] 外部リンク
- 広島平和記念資料館WEB SITE
- A-Bomb WWW Museum
- ヒロシマの心を伝える会
- 放射線の影響 (放射線影響研究所 RERF)
- 財団法人 広島平和文化センター
- 地下壕
- 私の被爆体験と平和への思い
- RCCテレビ『被爆60年 ヒロシマの記憶』 ("The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki"の映像を元にした作品。動画あり)
- ヒロシマ新聞
- 広島・長崎への原爆投下の経緯・理由
- 広島原爆写真館 - 平和都市 ヒロシマの願い
[編集] 子供向け説明