ディジタル・イクイップメント・コーポレーション
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ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (Digital Equipment Corporation) は、1957年、ケン・オルセンによってマサチューセッツ州メイナードに設立された、アメリカ合衆国を代表するコンピュータ企業のひとつ。通称 DEC(デック)。欧米では Digitalと略記されることも多い。そのPDPシリーズとVAXシリーズは1970年代と1980年代の科学技術分野において、間違いなく最も一般的なミニコンピュータであった。1998年にコンパックに買収された(その後、コンパックは2001年にヒューレット・パッカード (HP) に買収されている)。現在、その製品群はHPの名前で販売され続けている。
ロゴの色や会社規模から、IBMの愛称"Big Blue"に対して、"Small Blue"の愛称で呼ばれていた。後にロゴの色は青からバーガンディ(ブルゴーニュ産のワイン色)へと変更された。
ディジタル・イクイップメント・コーポレーションとデジタルリサーチは全く無関係であり、ウェスタン・デジタルも無関係である(LSI-11チップセットを製造したのがウェスタン・デジタルという関係はある)。
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[編集] 歴史
同社は1957年、ケン・オルセンとハーラン・アンダーソンが設立した。彼らはマサチューセッツ工科大学(MIT)のリンカーン研究所でTX-2プロジェクトに従事していた技術者である。TX-2はトランジスタを使ったコンピュータで、磁気コアメモリによる64Kワード(36ビットワード)もの大容量主記憶装置が特徴であった。このプロジェクトの継続が困難になったとき、オルセンとアンダーソンはMITを離れ、DECを創設したのである。Georges Doriot 率いるベンチャーキャピタル(AR&D)が6万ドルを出資した(後に売却によってAR&Dは4億5000万ドルを得たという)。当時、ベンチャーキャピタル市場ではコンピュータ企業は敬遠されており、2人の計画にも多くの投資家は興味を示さなかった。当初の計画によれば、社名は「ディジタル・コンピュータ・コーポレーション」だったが、AR&Dが社名をDECに変更させた(つまり、コンピュータという言葉に拒否反応を示す投資家が多かったのでそこを変更させた)。また、DECは当初デジタルモジュール群(フリップフロップ、ゲート、変換器など)を元のMITからの依頼で製造するところから仕事を始めた。それらを組み合わせれば科学技術関連の実験などが可能だった。1959年、ベン・ガーリーはDEC初のコンピュータ PDP-1の設計を開始した(PDPとは、Programmable Data Processor の略であり、ここでもコンピュータという言葉を避けている)。
最初のモジュールは独立した「研究モジュール」であり、1、2個のゲートを押し出し成型のアルミニウムでパッケージしたものである。これらのモジュールを電源供給付きの19インチのラックの棚に積み重ね、論理回路は各モジュールをコードで繋いで形成された。このようにしてできた論理回路を「System Building Blocks」としてパッケージ化し、PDP-1の製作に使用した。同様の回路が "R"(red)シリーズ・フリップチップモジュールとしてパッケージ化された(訳注:昨今ICチップを基板に実装する技術の一種にフリップチップという名称があるが、それとは無関係)。後に、もっと高速高密度なモジュールも製品化された。DECはモジュールに関して基礎から解る広範囲のデータを約A5版大厚さ約2センチの無料のカタログ本(英文)の形で提供し、これが非常にポピュラーになった。
このカタログ本の無料提供はミニコンピュータでも継承されI/Oのハードウエア機能やインタフェース手法とアセンブリ言語を基礎から応用まで理解し、モジュールも買いユーザは自ら制御システムを構築できた。事務用と異なり制御用コンピュータゆえに採用検討のユーザにも教科書(カタログ本)を広く配りユーザ独自で学び個々のシステムの構築を促進する方針を採った。これら大量配布のカタログ本は自社内の印刷・製本部門で作られた。
日本支社は1968年に人員5-6人で設立され、販売代理店の株式会社理経が納入したミニコンピュータの保守サービスのみを手掛けることから始まった。
[編集] 8ビットシステム
1980年代に作られたVT180(コード名 "Robin")はZ80ベースのマイクロコンピュータを内蔵してCP/Mが動作するVT100端末であった。後継としてZ80とIntel 8088CPUを内蔵し、CP/M、CP/M-86、PC-DOSが動作する Rainbow 100 がある。
[編集] 12ビットシステム
研究所などに低価格な製品を提供するため、DECは初期のミニコンピュータPDP-5を1963年にリリースした。1964年の後継機PDP-8が最も成功した。小型の12ビットワードマシンで16,000ドルで販売された。PDP-8はカートで運べるほど小さい。非常に単純なので様々な応用ができた。DECは色々なニッチ市場や、研究所、鉄道、各種工業関連にこれを多数販売した。 PDP-5は1964年(昭和39年)東京大学の旧田無市の原子核研究所(1997年3月閉所)に導入され日本初のPDP機であった。
PDP-8 は歴史的にも重要である。当時、コンピュータは巨大なシステムであり、データセンターに置かれるものだったが、PDP-8 は実際にコンピュータを操作する少数の人々が自身のために購入した。低価格と小型であることが大きな理由であり、特定の必要性を満たすために購入された。今日、PDP-8 は世界初のミニコンピュータとみなされている。PDP-8 の従兄弟のようなシステムとして PDP-12 がある。これは、LINCコンピュータの入出力機能とPDP-8を統合したものである。
多くの8ビット/16ビットマシンが PDP-8 のアーキテクチャに影響されている。例えば、HP 2100やデータゼネラル Novaがある。直接的ではないが、ナショナル セミコンダクターのIMP、PACE、INS8900 や Signetics 2650 といったマイクロプロセッサも影響を受けている。PDP-8系列のマシンは、アキュムレータ(AC と MQ、A と B など)や汎用レジスタ(R0~R3)が少なく、ベースページとカレントページという概念で代表されるメモリ (主記憶装置) のアドレッシングが特徴的である。
汎用レジスタは16個もあるが、4ビットのIntel 4004もPDP-8の影響を受けている。テッド・ホフはビジコンの電卓向けチップセットを評価している時、部屋の片隅にある PDP-8 の方が回路が単純なのに強力であることに気づいた。そこで、彼はビジコンの設計したチップではなくプログラム可能な「コンピュータ・チップセット」を電卓向けに作ることを提案した。
[編集] 16ビットシステム
PDPシリーズで有名なもうひとつのマシンはPDP-11である。業界標準化しつつあった8ビットバイトの傾向に乗り、16ビットワードを採用。PDP-11 は PDP-8 の上位機種として登場したが、後に集積回路の登場によってシングルチップのマイクロプロセッサとなり、最近のパーソナルコンピュータとサイズ的には変わらないシステムとなった。
PDP-11 にはいくつかのオペレーティングシステムがあった。ベル研究所のUNIXオペレーティングシステムやDECの RSX-11 や RSTS/E などである。RSTS と UNIX は教育機関が無料で使うことができ、PDP-11 は当時の技術者や情報工学者が色々なことを試す道具となった。
PDP-11 は 16ビットのバイト指向アーキテクチャで、64Kバイトの仮想アドレス空間を提供した。ページング方式とメモリ保護機能を持ち、タイムシェアリングシステムの構築が可能である。いくつかのモデルでは命令とデータの空間を分離して実効仮想空間サイズを128Kバイト、物理空間を最大4Mバイトとしていた。
PDPのオペレーティングシステム(OS)は他のOSのモデルとなった。CP/Mのコマンド構文も同様である。それがMS-DOSやMicrosoft Windowsにも受け継がれた。そのため、ファイルのパス名にバックスラッシュ(日本語環境では '¥' )が使われるようになったのである(UNIXでは '/' が使われる)。
PDP-11の洗練された命令セットは、他社マイクロプロセッサの大きな手本となった。具体的にはモトローラのMC6800シリーズがそれにあたる。
[編集] 18ビットシステム
1960年代、DECはIBMのメインフレームの少し下の価格・性能を目指した製品を生み出した。それらは磁気コアメモリを使用した 18ビットワード機である。PDP-1、PDP-4 (1963年)、PDP-7 (最初にフリップチップモジュールを採用)、PDP-9 (1965年)、PDP-15(1970年、後に "XVM" シリーズに改名)がある。PDP-15はTTL集積回路を使用した初期のシステムのひとつである。これらのコンピュータは当時としてはある程度強力で、産業、科学、医学などの研究所で主に使われた。
[編集] 24ビットシステム
ゴードン・ベルによると、2番目のPDP(PDP-2)は24ビットシステムが計画されていたが、開発されなかった。
[編集] 36ビットシステム
3番目のPDP(PDP-3)は、DEC の System Building Blocks を利用し、ある顧客の提示した仕様に従ってコンピュータを1台だけ製作したものであった。
大規模な科学技術計算向けの 36ビットアーキテクチャが一般向けに製品化されたのは、1964年のPDP-6が最初である。IBMの701から7094の科学技術計算機と同じワード長を採用したが、IBMはSystem/360シリーズの32ビットアーキテクチャが後継となったため、36ビットを引き続き使いたいユーザーがPDP-6を採用した。後継のPDP-10シリーズは DECsystem-10 あるいは DECSYSTEM-20 として販売された。
[編集] VAXシステム
1976年、DECは「スーパーミニ」と称する最初の32ビットミニコンピュータを開発し、PDP-11アーキテクチャを32ビットに拡張すると決断した。1978年、VAX(Virtual Address eXtension)11/780が登場し、すぐにミニコンピュータ市場を独占していった。データゼネラルなどの競合他社はこれになかなか追随できなかったが、その原因はDECの成功だけではなく、マイクロコンピュータやワークステーションがミニコンピュータのローエンド市場を侵食してきたためでもある。1983年、DECは Jupitor プロジェクト(PDP-10の後継機開発計画)を中止し、VAX を同社唯一のコンピュータアーキテクチャとしてプロモーションしていく戦略に切り換えた。当時、マイクロプロセッサとネットワーク技術を使えば、ひとつのアーキテクチャで 1:1000 の範囲の計算能力をカバーできると考えられていた。
VAXシリーズの命令セットは今日の一般的な命令セットから見ても非常に豊富な命令群(と豊富なアドレッシングモード)を持っていた。PDPシリーズのページング方式とメモリ保護機能に加えて、VAXは仮想記憶をサポートしている。VAXではUNIXとDEC独自のVMSオペレーティングシステムを使うことができる。
VAX-11シリーズの登場後、DECはシェア拡大のため、ローエンド/ハイエンド市場に向けて様々なバリエーションのシリーズ展開を行っていった。
- VAX-11 Series
- MicroVAX Series
- VAXStation Series(Workstation model)
- VAX 8xxx/9xxx Series
- VAXft Series(Fault tolerant model)
1980年代終盤のピーク時、DECは世界第二位の規模のコンピュータ企業となり、従業員は10万人を超えていた。そのころからDECはあらゆる「ホット」なニッチ市場向けのソフトウェアを開発するようになった。それにはDEC独自のネットワークシステム DECnet、ファイルおよびプリンタ共有、リレーショナル・データベース、トランザクション処理などがある。それらは良く設計されていたが、多くはDEC独特の仕様であり、顧客はそれらを使わずにサードパーティ製品を使うことが多かった。この問題はオルセンが普通の広告を嫌い、技術が確かならば必ず売れるという信念を持っていたことで悪化する。これらのプロジェクトには多大な予算が注ぎ込まれたが、同時期にRISCアーキテクチャをベースとしたワークステーションがVAXの性能に迫ろうとしていた。VAX/VMS製品の大成功に縛られ、独自技術を追求していたDECは、インテルベースのパーソナルコンピュータとかUNIXのような標準ソフトウェアとかTCP/IPのようなインターネットプロトコルといった業界標準の採用が遅れてしまった。1990年代初期にDECは売り上げが低迷し始め、最初のレイオフを行う羽目に陥った。ミニコンピュータや世界初の個人用コンピュータと言われるものを生み出した会社は、コンピュータ業界の大きな変革の波に乗ることができなかった。
[編集] Alphaシステム
1980年代、DECはVAXアーキテクチャを RISC CPU で置き換えるための設計を何度か試みた。1992年、DECは Alpha CPU を発表(当初の名称は "Alpha AXP")。64ビットのRISCアーキテクチャであり(対してVAXは32ビットのCISCアーキテクチャである)、64ビットのマイクロプロセッサとしては最も早く世に出たもののひとつである。Alphaは発表当初から最高の価格性能比を示し、2000年代に入ってからの後継チップでもそれは変わらなかった。Alphaベースのコンピュータ(DEC AXP シリーズ。後にAlphaServerとAlphaStationに改称)はVAXアーキテクチャ製品とMIPSアーキテクチャのDECstationを代替することとなった。オペレーティングシステム (OS) としては、VMS、UNIX、Microsoft Windows NTが動作した。
DECはUNIX市場に関して、VMSオペレーティングシステムを "OpenVMS" とし、また自身のUNIXとしてOSF/1 AXP(後に Digital UNIX と改称)を売り出して、積極的に広告展開し始めた。しかし、DECは混沌としたUNIX市場に乗り込む準備ができていなかった。さらにインテル製CPUの Windows NT サーバがローエンド市場を侵食し始めた。かつてのDECの顧客を超えてシェアを獲得することは不可能であった。
[編集] パーソナルコンピュータ
DECはIBM PCにも対抗して、VT220端末と同じ外観をもったプロプライエタリなアーキテクチャの三種類のパーソナルコンピュータ (パソコン) を発売した。ひとつは「プロフェッショナル」向け、ひとつはワードプロセッサ (ワープロ) 専用、最後が「ほぼ」IBM互換であった。これらは全て失敗に終わった。"DEC Pro 100" はPDP-11ベースであり、CP/MとIntel 8080ベースのコンピュータとは互換性がなく、アドレス空間も64キロバイト(16ビット)に限定されていて、Intel 8086の1メガバイトには及ばなかった。"DecMate Pro" は PDP-8ベースのワープロ機で、汎用で使うには問題があるし、ワープロとしても当時の他社のマシンに対抗できるものではなかった。"Rainbow 100" は8086を搭載してCP/M-86も動作し、アプリケーションソフトウェアを再コンパイルすれば実行することができた。しかし、そのころ既にMS-DOS上でLotus 1-2-3のような出来合いのアプリケーションを実行する使用法が一般的になりつつあったのに対し、DECはMS-DOSのサポートが遅れ、完全なPC/AT互換機を発売することはなかったのである。現在では当たり前だが、当時は事前にフォーマットされたフロッピーディスクを購入しなければならない(あるいは、既存のシステムでフォーマットしておく必要がある)点にも不満を持った。なお、1986年に VAXmate というマシンが発売されている。これは Windows 1.0 が動作した。また、既存のIBM PCやNEC PC-9801とイーサネットを介して通信するためのソフトウェアとしてDECnet-DOSをリリースしたり、マイクロソフト系のネットワークプロトコルをサポートした VAX/VMSサーバも発売している。
1995年からcompaqとの合併まで、PC-AT互換のノートPC、デスクトップPC、サーバを発売していた。digital HiNote Ultraシリーズは比較的効高価ではあったが、薄型筐体やトラックボール、英語キーボードへの交換サービスなどで一部パワーユーザに好評を博した。
[編集] 設計ソリューション
DECsystem-10/20、PDP、VAX、Alpha以外に、DECは DNA(Digital Network Architecture、これを実装したのがDECnet)や DSA(Digital Storage Architecture)などの工学的設計でよく知られている。技術的詳細は Digital Technical Journal 誌のアーカイブ[1]を参照されたい。
[編集] DECの終焉
1992年6月、ケン・オルセンはCEOの座をロバート・パーマーに明け渡したが、パーマーは衰退の流れを変えることができなかった。多くの人々はパーマーが雇われたのは資産を分離して残りを売却するためだったと考えている。レイオフが度重なり、DECの資産の多くはスピンオフとして分離されていった。
- 教育研修部門は、独立した会社「グローバル ナレッジ ネットワーク」として分離された[2]。
- データベース (RDBMS) 製品 DEC Rdb はオラクルに売却された。
- TKシリーズの磁気テープ技術はクアンタムに売却され、今日のDLT および SuperDLTの技術基盤となった。
- 1997年5月、DECはPentiumの設計がAlphaの特許を侵害しているとしてインテルを訴えた。結果として、DECの半導体部門がインテルに売却されることとなった。それにはDECのStrongARM(ARMアーキテクチャ)が含まれており、インテルはこれを元にIntel XScaleプロセッサを開発してPDAなどに採用されている。
- 1997年、プリンタ部門は GENICOM に売却された。当時の機種は未だに DEC のロゴ付きで販売されている。
- ほぼ同じ時期に、ネットワーク部門は Cabletron Systems に売却された。
1998年1月26日、ついにDECの残り全ての部分がコンパックに売却された。コンパック自体も2002年にヒューレット・パッカード (HP) に吸収合併されている。HPが販売している StorageWorks(ディスク/テープ製品)[3]は、コンパック経由で獲得したDEC製品が元になっている。
[編集] 成果
- DECはANSI標準、特にASCII文字集合をサポートしてきた。それは現在UnicodeとISO文字集合に受け継がれている。またDEC独自の Multinational Character Set は、ISO 8859-1やUnicodeのLatin-1文字群に多大な影響を与えた。
- UNIXは最初にDEC のマシンPDP-7上で作られ、後にPDP-11に移植された。この際、PDP-7のアセンブリ言語で書かれていたUNIXをポータブルに移植する (移植性を高める) ためにC言語が設計され、世界で最初に PDP-11 上に実装された。
- VT-78 世界で初めて商業的に成功したワークステーションである。
- DECのDIGITAL HiNoteシリーズは、当時では考えられない程スリムなノートパソコンであった。その優れたデザインや設計思想は、コンパック及びヒューレット・パッカードの製品に引き継がれている。
- DECが作り出したオペレーティングシステム (OS) として、OS/8、TOPS-10、TOPS-20、RSTS/E、RSX-11、RT-11、VMS、Digital UNIXがある。PDPシリーズの中でも PDP-11 は当時のプログラマやソフトウェア開発者に影響を与えた。PDP-11 を使用した工場ライン制御システムや交通制御システムが25年経った2004年まで使われていたとの話もある。DECはタイムシェアリングシステムでも業界をリードした。
- グラフィカルユーザインターフェース (GUI) におけるアップルコンピュータのように、DECはコマンド行インターフェイス(CLI)で重要な位置を占めている。起源や様々な発明はDEC以前にもあったが、CLIの形式を完成させたのはDECである。DCL(DIGITAL Command Language)として成文化されたDECのOSに見られるコマンド行インターフェイスは、最近のCLIのユーザーから見れば非常に親しみ易い。一方、CTSS、IBMのJCL、UNIVACのタイムシェアリングシステムなどは全く別物に見えるだろう。CP/MやMS-DOSのCLIはDECのOSと近い特徴を多く有している。例えば、コマンド名(DIR、HELPなど)やファイル名にドットで区切って拡張子を付ける規則などである。
- VMSを実行するVAXや(1980年代に広範囲に使われた)Micro-VAXコンピュータは、インターネット以前の重要なコンピュータネットワークDECnetを形成した。DECnetの通信プロトコルは初期のP2Pネットワーク標準のひとつとなった。市場がその価値に気づく以前から、電子メール、ファイル共有、企業内分散協調プロジェクトなどを実現していた。
- DECはイーサネットを商業的成功に導いた。当初、イーサネットはDECnetとLAT (Local Area Transport) プロトコルと共に使われ、VAXやターミナルサーバ(RS-232C接続端末を複数台接続し、イーサネット経由でホストシステムに接続する機器)を接続するのに使用された。DECは様々なイーサネットアダプタやコントローラを生み出し、それが業界標準となった。UNIBUS用イーサネットアダプタは、今日では一般的な送信と受信を内部的に分離した初めてのネットワークインターフェイスコントローラーである。
- 複数のマシンを論理的にひとつとして扱うコンピュータ・クラスター技術はDECが開発した(訳注:正確には製品としてクラスタを発売して最初に商業的に成功したのがDECである)。VAXclusterは単に分散処理ができるだけではなく、ディスクや磁気テープ装置なども共有できるようになっていた。
- LA36とLA120ドットマトリックスプリンタは業界標準になり、テレタイプ端末の終焉をもたらしている。
- VT100端末が業界標準になり、今日のPuTTY、Xtermなどの端末エミュレータでも、VT100をエミュレートできる(これら端末エミュレータのほとんどは、後継機種で上位互換のあるVT220をエミュレートする)。
- X Window Systemはマサチューセッツ工科大学 (MIT) のProject Athenaが開発したが、DECはこのプロジェクトのメインスポンサーであった。
- デヴィッド・カトラー率いるVMSの開発チームの多くのエンジニアは、後にマイクロソフトで Windows NT を開発した。そのため、Windows NTの内部構造は VMS に似ている部分が多い。VMSを同様の思想のもとに設計しなおしたのが Windows NT カーネルといえる。この命名には諸説あるが、VMSから進化させたことを受けて、"VMS"の英字を1文字づつ進めて"WNT"、つまりWindows NTとなったと言われている。カトラーはこの噂を否定も肯定もしていない。
- Notes-11 とその後継プロジェクト VAXnotes はグループウェアの初期の研究である。Notes-11開発者の一人 Len Kawell は後にロータスに転職し、Lotus Notes開発に関わった。
- DECはGoogle 以前にインターネット上を席巻していた検索エンジン Altavista のスポンサーでもあった。
- 磁気テープ Digital Linear Tape(DLT)の発明は、冷蔵庫ほどの大きさのオープンリールテープ装置を小型化して 5.25" スロットに収まるようにしたのが始まりで、それが30ギガバイトを超える容量のテープ装置にまで発展した。
- 世界初のハードディスク内蔵型MP3プレイヤー Personal Jukebox はコンパックへの吸収合併の約1ヵ月前に DEC Systems Research Center で開始された。
- 有名なテキストエディタのEmacsは、最初にPDP-10(TOPS-20)上に実装された。このTOPS-20は人工知能の研究に多く使われていた。
- 数式処理システムで有名な Macsyma も同じくこのPDP-10上の MacLisp 上で作られ、後に Common Lispに移植されフリーソフトウェアの Maxima になった。
- 初期のPDPシリーズからASR-33を採用し、UART,HDLC,TCP/IPなどの直列転送の基礎となった。
[編集] 参考文献
- Edgar H. Schein, Peter S. DeLisi, Paul J. Kampas, and Michael M. Sonduck, DEC Is Dead, Long Live DEC: The Lasting Legacy of Digital Equipment Corporation (San Francisco: Barrett-Koehler, 2003), ISBN 1-57675-225-9.
- C. Gordon Bell, J. Craig Mudge, and John E. McNamara, Computer Engineering - A DEC View of Hardware Systems Design; Digital Press, 1978, ISBN 0-932376-00-2.