コンパック
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コンパック (Compaq) は、1982年に設立されたパーソナルコンピュータ (PC) 企業。1980年代、世界初のIBM PC互換機を低価格で製造した企業のひとつである。Compaq という名称は "Compatibility and Quality"(互換性と品質)の略である。2002年、ヒューレット・パッカード社に吸収合併されるまで独立企業として存続していた。 日本では日本仕様のPC/AT互換機がないころ、販売権が現在東証2部上場のカテナ1社にしか認められていなかった。
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[編集] 歴史
[編集] 1980年代
コンパックは1982年2月、半導体企業テキサス・インスツルメンツ社の上級マネージャロッド・キャニオン、ジム・ハリス、ビル・マートらの三人が1000ドルずつ出し合って設立した。コンパックの最初のPCのアーキテクチャは、その三人がヒューストンのレストランで話し合っているときに、ナプキンの上に書いたと言われている。
1982年11月、コンパックは最初の製品Compaq Portableを発表した。これはIBM PC互換のパーソナルコンピュータで持ち運び可能という特徴があった。発売は1983年3月で価格は2995ドルであり、当時の競合機種と比較すると極めて手ごろな価格設定である。Compaq Portable は現在のラップトップパソコンの先祖でもある。これが記録的なヒットとなり、コンパックは設立後3年間の会社の売り上げで、アメリカでの記録を打ち立てた。
1985年、コンパックはデスクトップ型コンピュータ Compaq Deskpro 286 をリリースした。これはIntel 80286マイクロプロセッサを 6MHz で駆動し、メモリ 7Mバイトを搭載していて、IBMの当時のマシンよりも高性能で互換性があったのである。40Mバイトハードディスク搭載機種で2000ドルであった。これが Compaq Deskpro シリーズの最初の製品である。
1986年、コンパックは Compaq Portable II をリリースした。Compaq Portable よりもずっと軽くて小さくなっており、8MHzのプロセッサと10Mバイトのハードディスクを搭載していて、IBM の PC/AT よりも低価格だった。1987年、最初のIntel 80386マイクロプロセッサ搭載PC(Compaq Portable 386 と Compaq Portable III)を登場させた。当時、IBMはまだ386を使っておらず、これによってコンパックはPC互換機ビジネスを確立したのである。つまり、IBMの路線に追随していくのではなく、PC互換機というIBMとは切り離された市場が完成した。
[編集] 1990年代から2000年代
1990年代初期、コンパックは Presario によって個人向けコンピュータ市場に参入した。1990年代中盤には1000ドル以下のパソコンを市場に初めて投入した企業でもある。低価格路線を維持するために、コンパックはいち早くAMDやサイリックスのマイクロプロセッサを使用し始めた。このコンパックの仕掛けた価格競争によって多くの競合企業が振り落とされていった。それは例えばIBMやパッカードベルである。
1997年、コンパックはNonStopシリーズで有名なタンデム・コンピュータ社を買収した。これによってコンパックはハイエンド市場に参入することとなる。さらに1998年、1970年代から1980年代のコンピュータ市場をリードしたディジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)社を買収した。この買収によって単純な売り上げの加算で見ればコンパックは世界第2位のコンピュータ企業となった。
2002年、コンパックはヒューレット・パッカード社に吸収合併された。HP社の創業者一族のウォルター・ヒューレットなどの大株主の一部はこの合併に反対した。当時のコンパックのCEOマイケル・カペラスは、ごく短期間HPの社長を務めて退職している。
2008年現在もコンパックブランド名は存続されており「hpcompaq」という名称が一般的に有名である。また、一時低迷していたPC販売実績も2006年にDELLを抜いて世界第一位となる。米国での販売シェアはDELLに劣るものの、世界的には極めて大きな販売シェアを誇っている。
[編集] 日本での活動(コンパック・ショック)
1991年に日本法人を設立。翌年3月に日本市場向けの製品を発表して、日本のパソコン市場に参入する。当時普及しつつあったDOS/Vソフトを搭載したAT互換機を、その頃の標準的なパソコンよりも割安な価格で販売した。これにより、それまでNECのPC-9800シリーズに事実上独占されていた日本のパソコン市場の一角を崩すことに成功する。 同時にNECを含む他メーカーもそれに追随して価格を下げざるを得なくなった。この価格破壊は「コンパック・ショック」と呼ばれた。
コンパック・ショックは、その後に続くAT互換機のシェア拡大を導くきっかけになった。
テレビCMにはTOKIOを起用。
Jリーグクラブである浦和レッドダイヤモンズのユニフォームスポンサー(背中)でもあった。