シャルル5世 (フランス王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャルル5世(Charles V le Sage, 1338年1月31日 (ヴァンセンヌ)- 1380年9月16日(ボテ・シュール・マルヌ城)、在位1364年 - 1380年)はフランス・ヴァロワ朝第3代の王。賢明王(ル・サージュ)と呼ばれる。中世末期の行政機構の研究家フランソワーズ・オトランはシャルル5世を税金の父と呼ぶ。最初にドーファン(Dauphin)の称号を有した王太子である。
目次 |
[編集] 出自と家族
フランス王ジャン2世とボンヌ・ド・リュクサンブール(ボヘミア王ヨハンの娘で神聖ローマ皇帝カール4世の同母姉)との間の息子。弟にアンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)がいる。
王妃はブルボン公ピエール1世の娘ジャンヌ・ド・ブルボン。1350年4月8日に結婚し、シャルル6世、オルレアン公ルイ1世など9人の子供をもうけているが成人したのは2人だけである。ジャンヌ・ド・ブルボンは、フィリップ3世の孫娘であり、またシャルルもジャンヌもブルボン公ルイ1世の子孫である。このような近親交配が、シャルル6世の精神疾患に影響があったのかもしれない。
- ジャンヌ(1357-1360)
- ジャン(1359-1364)
- ボンヌ(1360-1360)
- ジャン(1360-1366)
- シャルル(1368-1422)フランス王
- マリ(1370-1377)
- ルイ(1372-1407)オルレアン公
- イザベル(1373-1378)
- カトリーヌ(1378-1388)
愛人ビエット=ド=カジネルとの間に息子が一人いた。
- ジャン=ド=モンテギュ(1365-)
[編集] 肉体的な側面と人格
若い頃(1349年)に罹った病気(腸チフスとも結核とも)の後遺症から、言われているように瘦せっぽちではない(病気明けの1362年には73kg、1368年には77.5kg)が、彼の虚弱な健康は、彼を馬上槍試合や戦場からは遠ざけた。彼の右手は腫れ上がっており、重いものを持つことはできなかった。精神の面においては、明敏な感覚を持ち、国王として何ら欠けるところはなかった。彼は溌剌とした精神を持ち、まさしく、マキャヴェリ主義者であった。彼の伝記作家であるクリスティーヌ=ド=ピザンは、彼のことを「sage et visseux賢明で狡猾」と書いており、ランカスター公ジョン=オブ=ゴーントは、彼のことを、「royal attorney国王の代理人」と認めた。彼の気性は彼の父親、ジャン2世善良王とは全く違っていた。彼の父親は、中身のない激怒を顕わにしたり、自分の周りにはお気に入りしか取り巻かせなかったりする男であった。すぐに人格の不一致による不和は公然のものとなった。
シャルル5世賢明王は、極めて教養の深い人物であった。クリスティーヌ=ド=ピザンは、彼のことを次のように書き記している、つまり、完璧な教養の持ち主であり、七自由科(教養諸科、リベラルアーツ、文法・修辞・弁証法と算術・幾何・音楽・天文学の七つ)を修めている、と。一方で、彼は、敬虔だが迷信深い国王でもあった。彼に長い間執拗に襲い掛かってくる運命によって中々継嗣ができなかったし、当時の医師には手の出しようもない数々の健康上の問題の為に、彼は篤信家であり、また、占星術の信奉者になった。彼はセレスタン(天上)修道会の発展を後援し、また彼の図書館の七分の一が占星術、天文学、予見に関する作品であった。しかしながら、それらのことは、当時の教会や大学の見解あるいは彼の顧問官たちのそれと意見の対立 をもたらすこともあった。彼の信仰は、王の個人的な領域に留まっており、政治的な決断には何ら影響を与えなかった。
[編集] 幼少期
宮廷で、近親の同じ年代の子供らとともに育てられる。つまり、彼の叔父オルレアン公フィリップ(1336-1375、トゥレーヌ公、ヴァロア伯)、彼自身の弟ルイ、ジャン、フィリップの三人、ルイ=ド=ブルボン(1337-1410、ブルボン公ルイ2世)、バール公家のロベール(1344-1411、ポン・タ・ムッソン(モーゼルブリュック)候、バール公ロベルト1世、シャルルの姉マリーと結婚)とエドワール(1377-1415、バール公エドワルド3世マリーとロベールの息子。シャルルの甥。)、ブラバン(ブラバント)公家のゴドフロワ、エタンプ伯ルイ(フィリップ3世豪胆王の息子エタンプ伯・エヴルー伯のルイの息子エタンプ伯シャルルの長男。シャルル悪人王の男系の従兄弟)、エヴルー伯家のルイ(シャルル悪人王の弟)、アルトワ伯家のジャンとシャルル、アランソン伯シャルル3世(1337-1375、フィリップ6世の甥。アランソン伯・ラ=ペルシュ伯)、フィリップ=ド=ルーヴル(フィリップ=ド=ブルゴーニュ、ブルゴーニュ公、ブルグント自由伯、アルトワ、オーベルニュ、ブーロニュ伯など。彼の母がジャン2世と再婚)らである。
彼の家庭教師は、おそらく、シルヴェストル=ド=ラ=セルヴェルであり、彼はラテン語と文法を教えた。1349年に、彼の母と、父方の祖母がペストでなくなると、宮廷を去りドーフィネに向かった。その後間もなくして、1350年に彼の祖父フィリップ6世がなくなった。
[編集] フランス王家最初のドーファン
ドーフィネの伯であったウンベール2世は、税を徴収する能力の無さのため破産寸前であり、唯一の子供であった男子の死後は後継者もいなかったので、当時神聖ローマ帝国領であったドーフィネを売ることにした。皇帝も教皇も興味を示さなかったため、フィリップ6世が買うことになった。
合意では、将来の国王になるジャン2世善良王のものになるはずであったが、ジャンの長嫡子であるシャルルがドーファンになった。彼は11歳でしかなかったが、直ぐに、権威の行使の現場に直面した。彼は、高位聖職者ならびにドーフィネの家臣たちの臣従礼(オマージュ)を受け取った。
1350年四月八日、タン=レルミタージュで彼の従姉妹ジャンヌと結婚した。あらかじめ、教皇から近親婚の特免状は得ていたが、おそらく、シャルル6世の精神異常や、シャルル5世の他の子供の虚弱さは、この近親性に起源があると思われる。結婚は、ペストによってもたらされた、彼の母ボンヌ=ド=リュクサンブールと彼の祖母ジャンヌ=ド=ブルゴーニュの死によって延期されていた。当時ヨーロッパ中で猛威をふるっていたペストの拡散を緩和するために、王侯の集結は限定されており、近親者の間で結婚は執り行われた。
ドーフィネの支配は、フランス王国にとって貴重であった、というのも、ドーフィネはローヌ川を抑えており、このローヌ川は、古代から、地中海とヨーロッパ北部を結ぶ商業上の大動脈であったからであり、また、教皇の支配する街であり、中世ヨーロッパにおいては無視することのできない教皇の文書行政の中心地であるアヴィニョンと直接の交渉をすることができたからである。その若年にもかかわらず、シャルルは、自分の家臣たちに顔を売ることに専念し、争っている家臣の一族同士の争いを止めさせる為に仲裁などをした。彼は実用性のある経験を獲得した。
[編集] 事跡
百年戦争のさなか,ポワティエの戦い(1356年)に敗れた父王ジャン2世がイングランドに捕囚の身となったため,王太子のまま摂政として困難な国政を担当した。当時フランスは疲弊の極にあり,大諸侯,わけても叛服常無き王族シャルル・ド・ナヴァール(ナバラ王カルロス2世、エヴルー伯シャルル)の画策に悩まされた。エティエンヌ・マルセル指導下のパリの反乱およびジャックリーの乱を鎮定(1358年)し、王の虜囚直後に結ばれたロンドン条約の批准・履行を拒否し、イングランドと新たにブレティニ・カレー条約(1360年)を結ぶことに成功した。
現在の税金の基礎となる定期的な臨時徴税(矛盾した表現であるが)を行ったり、常備軍・官僚層を持つなど、後年の絶対王政のさきがけを成す。また、彼に仕えた軍人・官僚の中から、シャルル6世時代のマルムゼ(グロテスクな顔の小人)と呼ばれる官僚が現れた。
軍事面では、名将ベルトラン・デュ・ゲクランを重用し、イングランドに奪われた国土を回復すべく行動を起こす。コシュレルの戦い(1364年)で英軍の支援を受けたシャルル・ド・ナヴァール(ナヴァーラ王カルロス2世)の軍を撃破した。この勝利は、カルロスのフランス王位請求を断念させただけではなく、彼がフランスの王族エヴルー伯としてノルマンディーに持っていた領土を取り上げ、そこがイングランドの橋頭堡・進行路になることを防いだ(その代償としてカルロスは南仏に土地を与えられた)。さらにブレティニ・カレー条約での休戦による解雇で、社会不安(ルティエやエコルシュール(生皮剥ぎ)と呼ばれる盗賊化した傭兵が略奪行為を行ったことによる治安悪化)の原因であった傭兵隊をカスティーリャ王国援助に誘導し、あわせて外交上の成功をおさめた。(解雇された傭兵達は、エドワード黒太子の支配する治安の安定したアキテーヌからは追い出され、アヴィニョン教皇庁周辺に屯していた。これらの傭兵隊を討伐しようとするラ=マルシュ伯らの軍勢は敗北した。また、オスマン=トルコに対する十字軍として東方に派遣した傭兵達は、金だけを受け取って神聖ローマ帝国で略奪を働いた後、又フランスに戻ってきていた。) 一方、海上では、スロイスSLUYSの海戦以来、壊滅状態にあったフランス艦隊を再建する為に、ノルマンディーの兵器工廠クロ=デ=ガレをフル稼働させ多くの艦船を建造させ、また、フランス提督職amiral de Franceを、フランス大元帥(コネターブル=ド=フランス)と同様の特権を保持する職として復活させ、ジャン=ド=ヴィエンヌをその職に任じた。ド=ヴィエンヌは、彼の副官エティエンヌ=デュ=ムスティエらとともに、ワイト島やライやウィンチェルシー、ポーツマスやヘイスティングス、グレーヴゼンドなどイングランド本国の沿岸地帯を襲撃して回り、イングランド側を大いに悩ました。また、カスティリヤとの同盟の成功は、その海軍力の利用を可能にし、同国の援助を受けた1372年のラ=ロシェル沖での海戦のフランス側の勝利は、イングランドの制海権に対する威信を揺らがせた。
病弱で物静かな読書好きであり、武勇と騎士道を好む頑強な父ジャン2世と正反対で、戦闘を避け、敵の疲労を待って着実に城、都市を奪回して行く戦法、適切な妥協を含む外向手腕などの現実的な政策により治世末にはブレティニ・カレー条約で失われた領土をほぼ奪回した。
彼が、カレー・バイヨンヌ・ボルドー(実質上イングランド軍が駐屯し占領していたシェルブールはエヴルー伯であるシャルルの持ち物で、またブレストもブルターニュ公ジャンの土地であった)のイングランド軍を完全に駆逐せず、停戦したのも現実的な計算が働いた為である。
また膨大な蔵書を有し、アリストテレスの「国家論」(ニコラ=オレームの貨幣論に影響を与えた)、教父アウグスティヌスの「神の国」などの古典をフランス語に翻訳させている。その他にも、ドルdol司教エヴラール=トレモーゴンらに命じて政治的パンフレットである『果樹園丁の夢』、『老いた巡礼者の夢』などを出版させ、フランス教会の独立(ガリカニスムの始まりとも言われる)を主張した。
フランス王家の紋章を変更した事でも知られ、小百合紋(百合の花を無数に散らせた紋章)から、百合の花の数を三つにした紋章に変更した。
また、貨幣政策においては、リジウー司教ニコラ=オレームらの学説に従い、貨幣価値を安定させ貴金属含有率の高い通貨を発行し続けた。彼の祖父フィリップ6世や彼の父ジャン2世が、貨幣の貶質によって利益を得ようとしていたのにである。このことが、臨時的な課税の恒常化に役立ったとされる。
治世下の1377年にグレゴリウス11世(在位: 1370年 - 1378年)がアヴィニョンからローマに戻り教会大分裂が起きている。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランスの歴史 - メロヴィング朝 - カロリング朝 - カペー朝 - ヴァロワ朝 - ブルボン朝 - 第一帝政 - 復古王政 - 七月王政 - 第二帝政 |