ボヘミア
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ボヘミア (Bohemia) は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。チェコ語ではチェヒ (Čechy) 、ドイツ語ではベーメン (Böhmen) という。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド、南はオーストリアである。
中世から近世にかけてはプラハを中心に学問、とくにキリスト教の学者が多く活躍した。ヨハン・アモス・コメニウスの属した共同生活の兄弟団というプロテスタントの一派が三十年戦争でこの地を追われ、二度とここに戻ってくることができなかったことはヨーロッパの精神史の中でよく知られた事件である。
この地方はまた牧畜が盛んで、牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちの服装の好みに入り込み、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装に伝わっていったといわれる。またこの地方の服飾が、ドイツなど西ヨーロッパに伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。
[編集] 歴史
ラテン語・英語名のボヘミアは、古代にボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に居住していたケルト人の一派、ボイイ人に由来する。6世紀以降、西スラヴ人が移住し、モラヴィアの西スラヴ人とともに現在のチェコ人となった。しかし、ドイツに接しているために歴史的にドイツ人も多く居住し、政治的・文化的にドイツとのつながりは深い。7世紀にアヴァール人の侵攻を受けた後、9世紀頃にプシェミスル家のもとで公国を形成し、10世紀以降は神聖ローマ帝国に属して政治的に現在のドイツと結びついた。11世紀から12世紀にはボヘミア公は神聖ローマ帝国領内では当時まだほとんど存在しなかった王号をもつボヘミア王となり、高いステータスを獲得するが王権は弱く、実質上は歴代の王の後ろ盾となったドイツ人の傀儡として存在した。チェコ及びボヘミアは、その地理的な重要性から中世から近世にかけては「ボヘミアを征する者は、ヨーロッパを征す」とも言われた。
プシェミスル家断絶後の1310年からはドイツ貴族ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継いだ。神聖ローマ皇帝カール4世となったルクセンブルク家のボヘミア王カレル1世は、プラハに大学を設立してボヘミアに学問を根付かせた。15世紀にはプラハ大学からヤン・フスが出て宗教改革に乗り出すものの外圧により失敗するが、その過程でそれまでチェコを実質支配していたドイツ人を追放し、ポーランドのフス派プロテスタントと協力して戦い抜いたことはスラヴ民族主義の萌芽として注目される。
16世紀からはオーストリアのハプスブルク家の支配を受け、1618年には白山の戦いでハプスブルク軍相手にたった半日で敗北した結果、チェコのスラヴ人貴族は完全に根絶され、ドイツ人貴族のみとなった(チェコ貴族の入れ替え)。三十年戦争後期にスウェーデンに占領された。その後、ヴェストファーレン条約によって、ハプスブルク家に返還され、絶対王政下に置かれた。19世紀にはオーストリア帝国の一部となった。19世紀前半にはチェコ人の民族運動が盛り上がって次第にドイツ人から自立しようとする動きが高まり、1918年に1004年以来914年ぶりにようやくドイツ人の支配から離れると、新たに独立したチェコスロバキアの中心地域となった。
[編集] 関連項目
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