フィリップ1世 (フランス王)
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フィリップ1世(Philippe Ier, 1052年5月23日 - 1108年7月29日)は、フランスのカペー朝第4代国王(在位:1060年 - 1108年)。第3代国王・アンリ1世(1008年 - 1060年、在位:1031年 - 1060年)とアンヌ・ド・キエフ(1024年 - 1075年、キエフ大公ヤロスラフ1世の娘)の子。この頃、王位世襲権の基礎が固まった。
ロシア人である母アンヌによって付けられた「フィリップ」(Philippe、ギリシア語のPhilippos、「馬好き」の意)という名は、当時、異国風の響きを持つ名前だった。フィリップ1世は7歳で即位したが、母・アンヌが1066年まで、フランス史上初の女性摂政として実権を握っていた。
フィリップ1世の初婚は1072年。ホラントのベルタ(北ホラント伯フロリス1世の娘)を妻とした。ベルタとの間に、第5代国王となるルイ6世を設けた。
1077年、イングランド王ノルマンディー公ウィリアム1世(征服王)がブルターニュ征服を諦め、フィリップ1世と和解。
1092年5月15日、フィリップ1世はベルタと離婚し、当時アンジュー伯フルク4世の妻であったベルトラド(モンフォール伯シモン1世の娘)と再婚した。このため、1094年、リヨン司教はフィリップ1世を破門した。さらに翌1095年11月には、クレルモン教会会議において、ローマ教皇・ウルバヌス2世が正式に破門を通告した。後に破門を解かれたものの、フィリップ1世はベルトラドとの関係を復活させて、1104年まで破門が繰り返された。この離婚・破門問題により、フィリップ1世の影響力は低下し、第1回十字軍遠征にも参加することが出来なかった。在世中からその権威は失墜し、実権は王太子ルイ6世に移った。
1108年7月29日、フィリップ1世はムラン城で崩じ、サン・ブノワ・スル・ロワールに葬られた。
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