高安城
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- 高安城(たかやすじょう)は戦国時代の城。高安山の山頂に築かれた。松永久秀が築いた信貴山城の出城として築城された。
- 高安城(たかやすのき)は、 天智天皇の命令で667年に築かれたという朝鮮式山城の一つ。五老峰とも称した。本頁に詳細を記載する。
高安城は、663年の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が唐・新羅などの侵攻に備えて構築した王城守護のための最後の防衛線として築かれた。
「日本書紀」天智天皇6年(667年)11月の条に「倭国の高安城、讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築く」とあり、白村江の戦で敗れた為に天智天皇が唐・新羅連合軍の来攻に備えて建設させたとされる。
なお両高安城とも、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市に跨っている。
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[編集] 地理
現在、高安城が築かれていたのではないかとされる高安山は生駒山地の南端にある山である。奈良県と大阪府との境をなしており、山頂のすぐ西に大阪管区気象台の高安山気象レーダー観測所がある。四国、中国、紀伊半島などの西日本の雲の動きを観測し、西日本を襲う台風を警戒し観測をしている。
高安山周辺は標高400m以上の山頂部がいくつもの谷を抱えて複雑な地形をなす地形で、大阪平野に面する西側の山麓は急峻な斜面をなしており、外敵の攻撃を防ぎやすい地形といえる。また、眺望は良好で、今日でも山頂など突端部に立てば、大阪平野だけでなく淡路島、明石海峡以東の大阪湾が一望できる。それらのことから外敵の動向を瞬時に把握し、味方を必要な時期に必要な場所に派遣する拠点としてこの地が選ばれたのではないだろうか。
[編集] 発掘調査
当初、高安城は、昭和53年(1978年)4月、高安山の東方、生駒郡平群町の山腹で、八尾市の市民グループ「高安城を探る会(棚橋利光会長)」らのグループが倉庫跡と思われる礎石群を発見し高安城跡ではないかと大きな話題になった。しかし、奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査の結果、発見された礎石建物は廃城後の奈良時代初期(730年頃)の建物跡であることが判明した。そのため、一部では高安城は日本書紀の創作で実際は存在しなかったという論説が広まった。
しかし、そこに奈良県立橿原考古学研究所の研究員で地元八尾市の小学校教諭の奥田尚氏が遺構らしきものを発見。平成11年(1999年)3月18日、八尾市教育委員会の米田敏幸文化財課係長と確認した。その内容は、高安山頂の北西300m(標高約380m)で、方形の大きな花崗岩を二段積みした石垣が100m程にわたって続いているのを発見したというものであった。その後の調査などから城壁の高さは10mを越えるものであり、高安山の西側斜面の6箇所には方形に張り出した尾根の先端を平坦に整地してあり、その平坦地の周囲には石垣が構築されていた。この平坦地には他の古代城のように高い櫓を建てていたものと推測されている。
城域は南北2.1km、東西1.2kmに及ぶ広大なもので、建設年代は特定されていないがヤマト王権が最後の防衛線として国家事業として取り組んだものではないかとも考えられている。
あまりにも規模が大きい為に検証が進んでおらず、667年以降の築城の可能性も残されている。
[編集] 歴史
- 天智天皇6年(667年)11月、築城を命ずる。
- 天智天皇8年(669年)2月、補修を完了する。
- 天智天皇8年(669年)8月、天皇が行幸して城の改修を試みたが、人民の疲弊を哀れみ中止した。
- 弘文天皇元年・天武天皇元年(672年)7月3日、壬申の乱の際に、近江朝廷方の軍が高安城にあったため、吉野方の大伴吹負、坂本財の軍が攻撃し、落城。
- 持統天皇元年(686年)10月、高安城に行幸。
- 文武天皇2年(697年)8月、高安城を修す
- 大宝元年(701年)8月、廃城。烽火台の機能は継続。
- 和銅5年(712年)に烽火台の機能も高見(生駒山)に移動され停止される。
- 和銅5年(712年)8月23日、元明天皇、高安城へ行幸。
[編集] 高安城に関する過去の文献
[編集] 「日本書紀」
天智天皇
- (六年十一月)是(こ)の月に、倭国の高安城・讃吉国の山田郡の屋嶋城・対馬国の金田城を築(つ)く。
- (八年)秋八月丁未(ひのとひつじ)の朔(ついたち)己酉(つちのととり)に、天皇(すめらみこと)、高安嶺(たかやすのたけ)に登りまして、議(はか)りて城を修(おさ)めむとす。仍(なほ)、民(おほみのたから)の疲れたるを恤(めぐ)みたまひて、止めて作りたまはず。時の人感(め)でて歎(ほ)めて曰はく、「寔(これ)乃脩(すなは)ち仁愛(めぐみうつくしび)の徳(いきほひ)亦(また)寛(ゆたか)ならざらむや」と、云云(しかしかいふ)。
- (八年)是の冬に、高安城を脩(つく)りて、畿内の田税を収む。
- (九年二月)又、高安城を脩りて、穀と塩とを積む。
(壬申の乱)
- (元年七月)是の日に、坂本臣財(さかもとのおみたからよ)等、平石野(ひらいしのよ)に次(やど)れり。時に、近江の軍高安城に在りと聞きて登(た)つ。乃ち近江の軍、財等が来るを知りて、悉(ふつく)に税倉を焚きて、皆散(あら)け亡(う)せぬ。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。会明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比(たぢひ)、両(ふたつ)の道より、軍衆(いくさのひとども)多(さは)に至る。顕(あきらか)に旗旘(はた)見ゆ。人有りて曰はく、「近江の将(いくさのきみ)壱伎史韓国(いきのふびとからくに)が師(いくさ)なり」といふ。財等、高安城より降りて、衛我河(ゑがのかは)を渡りて、韓国と河の西に戦ふ。財等、衆(いくさ)少くして距(ふせ)くこと能はず。
- (四年二月)丁酉(ひのととりのひに)に、天皇、高安城に幸す。
- (三年)冬十月の庚戌(かのえいぬ)の朔庚申(かのえさるのひ)に、天皇高安城に幸す。
[編集] 「続日本紀」
- 二年八月二十日、高安城を修理した。
- 三年九月十五日、高安城を修理した。
- 大宝元年八月二十六日、高安城を廃止し、その建物や種々の貯蔵物を、大倭・河内の二国に移貯した。