阿部次郎
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阿部 次郎(あべ じろう、1883年(明治16年)8月27日 - 1959年(昭和34年)10月20日)は、哲学者、美学者、作家。
[編集] 生涯
1883年、山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺に生まれる。父は教師。8人兄弟の次男。8人兄弟のうち、4人が大学の教師となる。
荘内中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)から山形中学(現・山形県立山形東高等学校)へ転校。校長の方針に反発し、ストライキをおこし、退学。その後、京北中学(現・京北高等学校)へ編入。
1901年(明治34年)、第一高等学校入学。同級生に鳩山秀夫、岩波茂雄、荻原井泉水、一級下に斎藤茂吉がいた。1907年(明治40年)、東京帝国大学に入学し、ラファエル・フォン・ケーベル博士を師と仰ぐ。卒業論文「スピノーザの本体論」で哲学科を卒業。夏目漱石に師事していたこともあり、森田草平、小宮豊隆、和辻哲郎と親交を深めた。
1914年(大正3年)に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。1917年(大正6年)に一高の同級生であった岩波茂雄が雑誌「思潮」(現在の「思想」)を創刊。その主幹となる。
慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て1922年(大正11年)、文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追及する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。
帰国後の1923年(大正12年)東北帝国大学に新設の法文学部美学講座の初代教授に就任。以来23年間美学講座を担当。1941年(昭和16年)、法文学部長を務める。1945年(昭和20年)、定年退官。1947年(昭和22年)帝国学士院会員となる。1954年(昭和29年)、財団法人阿部日本文化研究所の設立、理事長兼所長を務める。
大正末年から『改造』に連載した『徳川時代の藝術と社会』は、今日なお読まれるべき著作である。阿部はここで、歌舞伎、浮世絵といった徳川時代芸術に、人を明るくさせる、高める性質がないとし、それは抑圧された町人たちの文化だからだと説いた。また遊里の文化的生産性を認めつつ、それが女奴隷が女王であるという矛盾を抱えていることも明らかにした。
哲学者や夏目漱石門下の作家らとの交流や、山形で同郷の斉藤茂吉や土門拳との交流は有名。戦後は角川源義と親しみ、ために『三太郎の日記』ほかの著作は角川書店から文庫版などで刊行され、没後、全17巻の全集が角川書店から刊行された。
1958年(昭和33年)脳軟化症のため東大附属病院に入院。
1959年仙台市名誉市民の称号を贈られる。同年、東大付属病院にて死去。
現在、酒田市(旧・松山町)の生家は阿部記念館となっており、東北大学には阿部次郎記念館がある。また旧・松山町では阿部次郎文化賞を設けていたが、2005年酒田市と合併し、現在、酒田市は賞の取り扱いを協議中。
[編集] 主な著作
- 1911年『影と聲』(森田草平・小宮豊隆・安倍能成と共著)
- 1912年「痴人とその二つの影」
- 1914年『三太郎の日記』(岩波書店、のち角川文庫)
- 1915年『三太郎の日記 第弐』
- 1916年『倫理学の根本問題』(岩波書店)
- 1917年『美学』(岩波書店)
- 1918年『合本 三太郎の日記』
- 1922年『人格主義』『地獄の征服』(岩波書店)
- 1931年『徳川時代の芸術と社会』改造社、のち角川選書
- 游欧雑記 独逸の巻 改造社, 1933
- 1934年『世界文化と日本文化』
- 秋窓記 岩波書店,1937
- ニイチェのツアラツストラ解釈並びに批評 新潮文庫,1938
- 日本の文化的責任 教学局,1938
- 万葉時代の社会と思想 生活社,1945
- 万葉人の生活 生活社,1945
- 1949年『残照』羽田書店
- 阿部次郎選集 第1-6 羽田書店,1949
- 勤労 労働文化社, 1950
- 点描日本文化 角川書店, 1953
- 阿部次郎全集 全17巻 角川書店, 1960-66
[編集] 参考文献
- 大平千枝子『父阿部次郎 愛と死』角川書店、1961(日本エッセイストクラブ賞受賞)