長澤和明
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長澤 和明 | ||
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名前 | ||
カタカナ | ナガサワ カズアキ | |
ラテン文字 | NAGASAWA Kazuaki | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1958年2月4日 | |
出身地 | 静岡県
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選手情報 | ||
ポジション | MF
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代表歴 | ||
出場 | 9 | |
得点 | 0 | |
長澤 和明(ながさわ かずあき、1958年2月4日 - )は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身の元サッカー選手・指導者・解説者。日本代表経験を持ち、現Jリーグ・ジュビロ磐田の初代監督も務めた。長女は女優の長澤まさみ。
目次 |
[編集] 来歴
東京農業大学を卒業後、1980年に日本サッカーリーグ・ヤマハ発動機サッカー部に入部。ゲームメーカーとして活躍した。また1982年にハンス・オフトがヤマハのコーチとして初来日した時の主将であった。1978年からは日本代表に選出されたが、同じポジションに木村和司が存在したため9試合出場に留まっている。その後は怪我に泣かされ30歳の若さで引退した。
引退後はヤマハのコーチを務めた後、1991年に監督に就任。在任中にチームが「ジュビロ磐田」に改称したため、長澤はヤマハ最後の監督と同時にジュビロ最初の監督となった。在任中、1992年の旧J1優勝、1993年のJリーグ昇格などの実績を残した。
しかしJリーグ昇格の功労者でありながら、ハンス・オフトを監督として再招聘するためにジュビロフロントは事実上長澤を解任し、フロント入りさせたが、逆に現場に拘る本人の怒りを買う事となり、ほどなくヤマハフットボールクラブを退社した。
その後、1995年から1996年までL・リーグの鈴与清水で、1997年には(旧)JFLの本田技研工業サッカー部(ホンダFC)で、1999年から2001年シーズン途中までソニー仙台FCでそれぞれ監督を務めた。
2001年秋から静岡県の常葉学園橘高校サッカー部で監督を務め、2005年に静岡県大会で優勝し全国大会に進出した。
2008年1月より、横浜F・マリノスへの監督就任が決まった桑原隆の後任として、浜松大学サッカー部の監督に就任した。また、前任者の桑原からスカイパーフェクTV!のジュビロ磐田ホームゲームや静岡放送の解説を引き継いでいる。
[編集] トピックス
- 普段は温和な性格だが、サッカーに対しては情熱的で、指導も大変厳しく、試合中は非常に熱くなる。そのため退席処分となることもしばしばであった。
- ホンダの監督時代には、退席した後にスタンドからトランシーバーを使ってベンチに指示を出したが、審判に見つかり注意されたことがある(彼以外にもこういうことをする監督は少なくない)。
他にも、ベンチ入り停止の試合でベンチ後方から大声で指示を出して、それを聞いたコーチが同じ指示を出したことがあったが、同じ指示が2回続けて聞こえてくるため疑問を感じた審判がベンチ周辺を見たところ、長澤がスタンドから指示を出していたため、試合を中断させたこともある。
- それでも最近は、自分の子供達と同年代の生徒達の指導をしていることからか、かつてに比べればかなり温和に、楽しく練習させていく傾向が強くなっている。
- なお、近年は学生の指導に専念しており表舞台に立つ機会が減少していることと、長女(長澤まさみ)が芸能界でブレイクしたことなどから、「ジュビロの初代監督」よりも「長澤まさみの父親」という印象が強い。
但し、まさみと二宮和也の熱愛報道が出た際には、恋愛沙汰に露骨に拒否感を示す両親も多い中で、「二宮君は好青年そうだし、良いのではないか。」と肯定的な発言をして話題になった。
- 1995年から当時JFLのNEC山形(現:モンテディオ山形)の監督就任が決まっていたが、長女まさみが「静岡を離れたくない」と山形への転居を嫌がった為、就任を辞退した。代わりに長澤がコーチに要請していた石崎信弘が監督に就任。石崎の指導者人生はここからスタートした。
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1980 | ヤマハ | JSL1部 | 17 | 0 | |||||||
1981 | ヤマハ | JSL1部 | 18 | 2 | |||||||
1982 | ヤマハ | JSL2部 | 15 | 1 | |||||||
1983 | ヤマハ | JSL1部 | 17 | 1 | |||||||
1984 | ヤマハ | JSL1部 | 9 | 2 | |||||||
1985 | ヤマハ | 10 | JSL1部 | 18 | 2 | ||||||
1986-87 | ヤマハ | 10 | JSL1部 | 21 | 1 | ||||||
1987-88 | ヤマハ | 10 | JSL1部 | 0 | 0 | ||||||
1988-89 | ヤマハ | 10 | JSL1部 | 0 | 0 | ||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 108 | 8 | |||||||
日本 | JSL2部 | 15 | 1 | ||||||||
総通算 | 123 | 9 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- ワールドカップメキシコ大会予選
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 9試合 0得点(1978-1985)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1978 | 6 | 0 | 5 | 0 | 11 | 0 |
1979 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1980 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1981 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1982 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1983 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1984 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1985 | 3 | 0 | 3 | 0 | 6 | 0 |
通算 | 9 | 0 | 8 | 0 | 17 | 0 |
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