鈴木隆
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鈴木 隆(すずき たかし、1933年9月22日 - )は大洋ホエールズ・東京オリオンズに所属したプロ野球選手(投手)。福島県出身。引退後は大洋でコーチを2期務めた。
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[編集] 来歴・人物
田村高校から中央大学、社会人の川崎トキコを経て1958年、大洋に入団。入団当初は先発だったが後に中継ぎで頭角を現し、1964年には年間70試合に登板した。
1966年に東京へ移籍し1968年に再び大洋へ復帰したが勝ち星を挙げる事が出来ず現役引退。その後は1976年までコーチを務めた。1971年にはプロ野球界を震撼させた黒い霧事件で謹慎処分を受けた苦い経験も持つ。1977年からはニッポン放送の野球解説者として活動していたが1985年、9年ぶりにコーチ業へ復帰した。
1987年から1993年まで大洋・横浜のスカウトを務め、1989年からはスカウト兼任でtvkの野球解説を2005年まで務めた。元ホエールズのOB会副会長(当時の会長は故秋山登氏)も歴任した。
[編集] 略歴
- 投打:左投左打
- 出身地:福島県田村郡三春町
- 球歴:田村高 - 中大 - 川崎トキコ - 大洋ホエールズ(1958年-1965年) - 東京オリオンズ(1966年-1967年) - 大洋ホエールズ・横浜ベイスターズ(1968年-1976年、1985年-1986年)
[編集] エピソード
- シャイで職人肌の反面マウンドでは非常に気性が荒く、キレの良い球で内角をグイグイ突いた。
- 社会人時代から評判の左腕で、多くの球団からスカウトされた。大洋に入団した理由について、NHKの番組『ドキュメントスポーツ大陸・よみがえる熱球プロ野球70年、第3集・三原魔術』で語った所によると、「12球団からスカウトが来たが、中部謙吉オーナーの『大洋は今は一番弱い。しかし巨人に勝てるチームにしたいんだ。』の言葉で入団を決意した。強い者に勝つというオーナーの心意気が気に入った。」と語っている。
- 1960年には当時の三原脩監督により先発からリリーフに転向。当初は「先発完投こそ投手」と転向が不満だったが、次第に三原野球における自身の役割を理解し、最終的にはやりがいを感じるようになる。
- しかし三原監督が投手交代のためマウンドに来ると、ボールを渡さず逃げ回り、三原を苦笑させた。もちろん鈴木一流のジョークだったが、対戦相手には内輪揉めしているように見えたという。
- 1960年6月1日の巨人戦で、8者連続奪三振のセリーグ記録を達成。
- 中央大時代に早稲田実業とよく練習試合をしていて癖を知っていたこともあり、王貞治に強かった。上記8連続奪三振も8人目は王だった。また、鈴木が登板している試合で初回にチャンスを迎えた時に第1打席から代打を送られたり、王が22年の選手生活で唯一のスクイズバントをしたのも鈴木相手である(1960年7月15日)。1962年7月1日の大洋戦で王が一本足打法を試合で使う決心をするきっかけも、前日鈴木に抑え込まれたことだった。一本足打法によって王は大ブレークを遂げ、鈴木もこの年初めて王に本塁打を許した。また、1964年9月6日の巨人戦で南海・野村克也の持っていたシーズン本塁打記録に並ぶ第52号を許した(ちなみに新記録の53号は同じ試合で峰国安、現在のシーズン記録55号は佐々木吉朗と、いずれも大洋の同僚が打たれている)。しかしながら、それでも鈴木が移籍するまでの4シーズンで王に許した本塁打はわずか6本、通算対戦成績は85打数21安打22三振で、対戦打率は.247、安打より三振が多く、王に対する相性が良かったことには変わりない。
[編集] 背番号
- 16 (1958年~1968年)
- 61 (1969年~1976年)
- 71 (1985年~1986年)
[編集] 年度別投手成績
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四 球 |
勝利 | 敗戦 | 投球回 | 被安打 | 被本 塁打 |
与四 死球 |
奪三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1958年 | 大洋 | 58 | 12 | 3 | 0 | 15 | 18 | 260.1 | 234 | 24 | 89 | 197 | 79 | 2.72(8) |
1959年 | 49 | 10 | 3 | 0 | 12 | 16 | 260.1 | 228 | 24 | 96 | 157 | 93 | 3.21(12) | |
1960年 | 46 | 1 | 1 | 0 | 5 | 11 | 160.1 | 141 | 14 | 55 | 112 | 52 | 2.91 | |
1961年 | 51 | 4 | 0 | 2 | 8 | 13 | 190 | 193 | 17 | 79 | 112 | 71 | 3.36(14) | |
1962年 | 56 | 7 | 5 | 1 | 14 | 8 | 191.1 | 151 | 14 | 54 | 157 | 54 | 2.53(13) | |
1963年 | 59 | 0 | 0 | 0 | 8 | 17 | 213.1 | 203 | 12 | 88 | 116 | 80 | 3.36(13) | |
1964年 | 70 | 0 | 0 | 0 | 9 | 8 | 151 | 147 | 11 | 49 | 61 | 54 | 3.22(16) | |
1965年 | 38 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 48 | 43 | 4 | 22 | 32 | 13 | 2.44 | |
1966年 | 東京 | 35 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 | 83.2 | 93 | 17 | 48 | 61 | 42 | 4.50 |
1967年 | 41 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 52.2 | 56 | 9 | 25 | 34 | 28 | 4.75 | |
1968年 | 大洋 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 14.2 | 18 | 3 | 10 | 10 | 13 | 7.80 |
通算成績 | 519 | 34 | 12 | 3 | 81 | 102 | 1625.2 | 1507 | 149 | 615 | 1049 | 579 | 3.20 |
- 表中の太字はリーグ最高
[編集] タイトル・表彰
- オールスターゲーム出場:3回(1958年~1960年)
- 1試合8者連続奪三振(歴代2位・セ・リーグ記録)
[編集] 関連項目
- 梶本隆夫(1試合連続奪三振記録保持者)
- 福島県出身の人物一覧
- 横浜ベイスターズの選手一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧