金素月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金素月 | |
---|---|
{{{picture-type}}} | |
{{{caption}}} | |
各種表記 | |
ハングル: | 김소월 |
漢字: | 金素月 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
きんそげつ |
片仮名: (現地語読み仮名) |
{{{katakana}}} |
ラテン文字転写: | Kim So-wol |
{{{alphabet-type}}}: | {{{alphabet}}} |
文学 |
---|
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
金素月(きんそげつ、1902年陰暦8月6日 - 1934年12月23日)は朝鮮の詩人。本名は金廷湜。号は素月。1920年、20歳で忽然と文壇に現れ、流れるような朝鮮語でもって情と恨(ハン)を独特の律調で表現した。天才詩人と呼ばれたが、32歳で自らその命を絶った。民謡風の詩人と称され今も愛され続けている国民的詩人である。
[編集] 略歴
1902年陰暦8月6日、平安北道亀城郡旺仁洞で生まれる。父は金性燾。6歳下の妹、金仁姐がいる。100日後に平安北道定州郡郭山面南端洞の父の家に移った。裕福な家庭であったが、素月が2歳のとき、父が日本人夫に袋叩きにされる事件があり、父が精神異常に陥ってしまう。そのことが、後の素月の人生に暗い影をさす。幼少の頃は祖父に漢文を習い、祖母に昔話を教わった。7歳で南山学校に入学した。友達もなく、いつも独りでいたという。南山学校を卒業するとすぐに祖父の紹介で洪時玉家の娘、丹実と結婚した。学業を優先したい素月としては気の進まない結婚であった。五山学校中学部で出会った教師、金億の影響で詩を書き始める。そして金億の口添えで文芸雑誌『創造』に「詩人の春」など五篇の詩を発表した。1922年、培材学校の5学年に編入した素月は、『開闢』を通して早くも37篇の詩を発表している。培材学校を卒業後、渡日。関東大震災で帰国した1923年に発表した詩は、彼の代表作となった。
1925年、詩集『つつじの花』を出版したときが彼の頂点であった。その後、詩作が活発でなくなっていく。1926年頃から東亜日報の支局を運営するようになるが、思うようにいかなかったようで、土地を売って運営資金を捻出したが行き詰まり、3年後に事業をやめた。
経済難が素月を追い込み、酒に身を委ねるようになる。1934年、9年ぶりに故郷に戻り、墓参りをする。そして市場で阿片を買い求めた。12月23日、服毒自殺を遂げた。亀城郡西山面に埋葬されたという。1968年、韓国日報社がソウルの南山に「素月詩碑」を建てた。
[編集] 年譜
- 1902年陰暦8月6日、平安北道亀城郡旺仁洞で生まれる。100日後、平安北道定州郡郭山面南端洞の父の家で育つ。
- 1904年、父が日本人夫の袋叩きに遭い、精神異常になる。
- 1905年、祖父、金相疇から漢文を習い始める。
- 1909年、南山学校に入学。
- 1913年、腸チフスにかかる。
- 1915年、南山学校を卒業。
- 1915年、洪丹実と結婚。五山学校の中学部に入学。
- 1918年、定州での珠算大会で優勝。
- 1919年、五山学校中学部を卒業。
- 1919年、長女、亀生が生まれる。
- 1920年、『創造』で文壇に登場。
- 1920年、次女、亀源が生まれる。
- 1922年、培材高等普通学校に編入学。
- 1923年、培材高等普通学校を卒業。
- 1923年、渡日、東京商業大学に入学(不合格だったという説もある)
- 1923年9月、関東大震災の影響で帰国。
- 1924年、故郷に戻る。その後、妻の実家である亀城郡西山面坪地洞に転居。
- 1924年、金東仁、金瓉永、林長和らと『露台』の同人になる。
- 1924年、長男、俊鎬が生まれる。
- 1926年、亀城郡南市で東亜日報支局を経営。
- 1926年、次男、殷鎬が生まれる。
- 1932年、三男、正鎬が生まれる。
- 1934年12月24日、服毒自殺を遂げる。