金森可重
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金森 可重(かなもり ありしげ、永禄元年(1558年) - 元和元年閏6月3日(1615年7月28日))は、安土桃山時代、江戸時代の武将、大名。飛騨国高山藩二代藩主。美濃の長屋景重の子として生まれ、金森長近の養嗣子となる。通称喜蔵。子に金森重近(宗和)、金森重頼、金森重勝(左京)、酒井重澄、娘(小出三尹室)。妻は遠藤慶隆娘、名護屋高久娘、江馬輝盛娘。従五位下出雲守。名の読みは「よししげ」とも。」
本能寺の変で金森長近の長男が戦死したため、長近の養子に迎えられた。1585年(天正13年)、養父長近と共に飛騨平定戦に活躍し、従五位下出雲守に任官し、飛騨国増島城1万石の城主となる。後に秀吉に従い佐々成政、姉小路頼綱らを討つなど、長近の飛騨支配に貢献した。九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵、上杉征伐にも長近とともに従軍。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、西軍の稲葉貞通が篭城する郡上八幡城を岳父の遠藤慶隆とともに攻めた。
養父の死後には飛騨高山3万8千石を知行し、飛騨一国を領するまでになる。なお、大坂の陣にも出兵し、小出吉英の加勢となって、樫井の戦いで西軍を撃退し、金森勢が挙げた首は百五十二とも二百八ともいわれている。
長近と同じく茶の湯に秀で、古田織部に師事した。2代将軍秀忠の茶道指南役を務め、吉野竹林院にて開かれた利休亡魂の茶会にも、可重は石川貞清らと共に参加している。この戦いで東軍に参加することを拒んだため、長男の重近を廃嫡し、三男の重頼に家督を譲る。
京都大徳寺龍源院に「天正十一年九月九日喜蔵とりつき」と刻字された古銃が残されている。父・長近所有とされたこの銃は、現存する国産火縄銃の中では最も古い部類に入る。元和元年閏6月3日、58歳で伏見にて死去し、後を金森重頼が継いだ。法号:徳応院殿雲峰閑公。墓所:京都市北区紫野の大徳寺。
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