金ユ信
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本来の表記は「金庾信」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
金庾信 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김유신 |
漢字: | 金庾信 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
きん ゆしん |
片仮名: (現地語読み仮名) |
キム・ユシン |
ラテン文字転写: | Kim Yusin , Kim Yushin |
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金庾信(きん ゆしん、595年 - 673年)は、三国時代の新羅の将軍。新羅の朝鮮半島統一に最大級の貢献をした。562年に新羅に併合された金官国の王家の血を引いており[1]、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。
647年の善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立ててこれを補佐し、女王が死ぬと金春秋を武烈王として即位させた。唐と連合して百済・倭と歴戦の末660年には百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼしてついに三国を統一した。
668年12月、文武王より太大角干の官位を贈られる。それまでの新羅の官位の最上階の大角干を上回る官位として設置されたものである。673年7月1日に79歳で死去したとき、文武王は嘆き悲しみ、帛1千匹と租2千石とを香典として下賜した。のちに興徳王(在位:826年 - 836年)の時代になって、<興武大王>に封じられた[2]。
『三国史記』においては金庾信に伝記3巻(巻41 - 43)を割り当てているとともに、同伝の末尾では編者の金富軾が、乙支文徳の知略や張保皐の義勇を称えながらも金庾信の功名を図抜けたものと記しており、三国統一の功績を高く評価している。
[編集] 脚注
- ^ 532年に新羅に投降した金官国の最後の仇衡王を金仇亥といい、その末子の金武力は角干(1等官)の位に上った。金武力の子の金舒玄が金庾信の父であり、金舒玄もまた角干の位にまで上った。
- ^ 追封については『三国史記』43金庾信伝・下による。ただし対応する記事は新羅本紀・興徳王紀には見られない。
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第4巻 金富軾撰 井上秀雄・鄭早苗訳注、平凡社〈東洋文庫492〉、1988 ISBN 4-582-80492-6
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5