武烈王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武烈王 | |
---|---|
{{{picture-type}}} | |
{{{caption}}} | |
各種表記 | |
ハングル: | 무열왕 |
漢字: | 武烈王 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
ぶれつおう |
片仮名: (現地語読み仮名) |
ムヨルワン |
ラテン文字転写: | Muyeol Wang |
{{{alphabet-type}}}: | {{{alphabet}}} |
武烈王(ぶれつおう、602年? - 661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年 – 661年)であり、姓は金、諱は春秋。父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と追封)、母は第26代真平王の娘の天明夫人(後に文貞太后と追封)。『旧唐書』『新唐書』には真徳女王の弟と記されているが、『三国史記』新羅本紀・太宗武烈王紀の分注ではこれを誤りと指摘している。王妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明夫人であり、金庾信の妹に当たる[1]。654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。
目次 |
[編集] 即位以前
宿敵・百済に対抗するため、また国際的に孤立しつつあった状況を打開するために、金春秋は盛んに外交活動を行なった。642年8月に百済に大耶城(慶尚南道陜川郡)を奪われ旧伽耶諸国地域を占領されると(大耶城に居住していた 金春秋の長女古陀炤が百済の兵士らによって殺害されると金春秋は百済を憎悪するようになった)、金春秋は高句麗に赴いて百済に対抗するための援軍を求めた。援軍は得られず逆に高句麗の淵蓋蘇文に監禁されることとなったが、高句麗の家臣に金春秋に同情するものが現れて、脱出することができた。このとき金春秋を迎えるために、金庾信は3千の兵を率いて高句麗との国境付近まで出陣しようとした。
高句麗への救援要請が失敗した後、647年(大化3年)には倭国(日本)へ使者として赴き[2]、倭国の動向を見極めるとともに百済への牽制を図ろうとした。
さらに648年には子の金文王とともに唐に入り、改めて百済の討伐のための救援を願い出て、太宗からは時期の確約はないまでも、出兵の約束を取りつけることができた。同時に新羅の礼服を改めて唐制に従いたい旨を申し入れて太宗に許され、帰国した後、649年の新羅の服制変更につながった。帰国の前に太宗からは唐の特進の位を授けられており、太宗に対しては自らの子らを宿衛に留まることを願い出て、同行していた金文王を唐に残し、後には嫡子の金宝敏(後の文武王)や王子の金仁問を唐に送って宿衛に入らしめた。これらの外交活動を通して唐との関係の強化を果たし、三国間で孤立していた状況の打開に成功した。
654年3月に先代の真徳女王が死去すると、初め群臣は上大等の閼川[3]に王位に就くことを求めたが、閼川は老齢を理由に固辞し、代わりに人徳・人望の優れている金春秋を推挙した。このために群臣は金春秋に王位に就くことを求め、金春秋も三度辞退した後に王位に就いた。
[編集] 治世
即位直後に唐からは<開府儀同三司・新羅王>に封じられ、あわせて<楽浪郡王>を増封された[4]。654年5月に理法府の令(長官)に命じて律令を詳しく調べさせ、理法府格(きゃく、律令の修正・補足のための法令、副法)60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備した。また、伊飡(2等官)の金剛を上大等に任命するとともに、波珍飡(4等官)の文忠を中侍(真徳女王代に設置された執事部の長官)に任命し、官位の低い貴族を能力本位で要職につけることで旧来の中央貴族による上大等制度と新興の執事部による政治制度との競合を図り、王権の強化にも努めた。後に658年には文忠を伊飡(2等官)に引き立てて、中侍には王子の金文王を任命した。660年1月に上大等の金剛が死ぬと、後任には金庾信を充てた。
655年1月には高句麗・靺鞨・百済の連合軍が攻め入って北部辺境の33城が奪われたため、唐に使者を送って救援を求めた。これに応えて唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わして高句麗を攻撃している。659年にも百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣した。660年3月には唐は百済討伐の出兵を行なったが、この討伐軍は左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大摠管とし、副大摠管は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問としていた。新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出されており、唐と新羅との連合軍としての百済討伐であることが明瞭であった。同年7月18日には義慈王の投降により百済は滅び、11月には武烈王は凱旋して論功行賞を行なった。このときに評価されたのは中央貴族の私兵層ではなく、位の低かった地方豪族や投降してきた旧百済の官人に重点が置かれており、新羅王の直接支配できる軍事力の拡大を図っている[5]。
[編集] 死去
さらに翌661年より唐と連合して高句麗を滅ぼそうとしたが、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。永敬寺の北に埋葬され[6]、武烈王の諡と太宗の廟号を贈られた。また、唐の高宗は武烈王の死を悼んで洛陽の城門で葬儀を行なった。後に第36代の恵恭王の時代に新羅の祖廟を定めたときには、恵恭王の父景徳王・祖父聖徳王とあわせて金氏の始祖である13代味鄒尼師今、三国統一の偉業を為した武烈王・文武王を選んで五廟とし、味鄒尼師今・武烈王・文武王の三者については代々不変の宗としたという[7]。
武烈王陵は現在の慶尚北道慶州市西岳洞にあり、その陵碑は大韓民国の国宝第25号に指定されている。
[編集] 脚注
- ^ 『三国遺事』王暦では王妃について訓帝夫人とし、文明王后は諡であるとする。
- ^ 『日本書紀』巻25・孝徳天皇3年是歳条「新羅遣上臣大阿滄金春秋等、(中略)仍以春秋為質。春秋美姿顔善談咲。」とあるように、このとき金春秋は人質として日本に滞在したことが記されているが、『三国史記』には日本へ行ったことも書かれていない。
- ^ 閼川は金庾信の活躍以前に高句麗戦などで活躍した武将であり、上大等の毗曇の内乱を鎮圧した後に真徳女王によって上大等に任命されていた。
- ^ 『旧唐書』巻211・新羅伝「(永徽)三年(652年)、真德卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王。加授開府儀同三司、封樂浪郡王。」
- ^ 当時の新羅の軍事力の中核は王都金城付近を地盤とする中央貴族の私兵であって、必ずしも新羅王が軍事力を掌握していたわけではなかった。百済討伐戦やその後の高句麗討伐戦における王の論功行賞は、下級の地方豪族や投降した敵将など、中央貴族の私兵として属していない層を重視しており、これらの階層が三国統一後の新羅王権を支えていくことになる、と見られている。(→井上1972)
- ^ 『三国遺事』紀異・太宗春秋公条には、哀公寺の東に葬られたとある。また死去の年齢が59歳であったと伝える。
- ^ 『三国史記』巻32・祭祀志。ただし巻9・恵恭王紀には対応する記事はみられない。
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『完訳 三国遺事』一然著 金思燁訳、明石書店、1997 ISBN 4-7503-0992-3(原著『完訳 三国遺事』六興出版、1980)
- 井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会<NHKブックス172>、1972 ISBN 4-14-001172-6
- 『朝鮮史』武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
|
|